教区の歴史
小川拓郎神父葬儀説教
2017年09月06日
2017年9月6日13時、東京カテドラル聖マリア大聖堂
ペトロ 小川拓郎(おがわひろお)神父様は、9月2日午前0時9分、天の御父のもとへと旅立たれました。
6月頃から、のどに異常を感じておられたようですが、病院で検査した結果、かなり進行している食道がんであるということが分かりました。
わたくしは、7月13日にお見舞いし、病者の塗油をお授けしました。
そのとき、小川神父様は、わたくしに、「司教さん、わたしはこれから神様のもとに行きますが、どのような準備をすれば良いでしょうか」と言われました。
豊四季教会主任司祭の立花昌和神父様をはじめ、豊四季教会のみなさまが、小川神父様のお世話を、本当によくしてくださり、そして、小川神父様ご本人も、天の御父のもとに旅立つための、非常に良い準備をされて、最後のときを迎えられたと、わたくしは思いました。
昨日は、豊四季教会でお通夜がありましたが、本当に多くの人から慕われ、惜しまれて、地上の生涯を終えたことを、しみじみと感じました。
神父様は、豊四季教会の現役の協力司祭として司祭の生涯を全うされました。
豊四季教会には14年おられましたが、着任した2003年から主任司祭、その7年後に協力司祭となられました。
神父様の、信者としての、そして、司祭としての生涯を振り返ってみますと、1947年に洗礼を受けておられます。神父さんは1931年生まれですから、16歳で洗礼を受けたことになります。日本が戦争に負けて、やっと復興に向かうというときであったでしょうか、日本全体が貧しいとき、16歳の少年であった、小川神父さんは、昼間は働きながら、夜は定時制高校に通って、家計を助けておられたそうです。
大森教会で洗礼を受けられ、そして、司祭になる決心をし、神学校に入り、司祭に叙階されたのは、1962年、31歳の時です。それ以来、助任司祭として、JOC全国指導司祭、主任司祭として、奉仕されました。
このように神父様は、若いときに、イエス・キリストに出会い、召命をいただいて、司祭となられました。
今日の福音朗読では、弟子のフィリポが、主イエスに向かって、
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハネ14・8)と言ったと伝えておりますが、そのフィリポに対して、イエスは言われました。
「わたしを見た者は、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネ14・14・9-10参照)
イエスが地上の生涯を終えて、天の父のもとに戻られたときに、わたしたち、教会をつくられました。そして、聖霊を派遣し、聖霊の働きを通して、ご自身の働きを継続し、発展させ、進展させてこられました。
不肖わたしたちは罪人であり、不完全な人間ですが、そのわたしたちを通して、聖霊が働いておられることを信じ、わたしたちを通して、多くの人が、復活した主イエス・キリストに出会うことができると信じております。
特に司祭は、自分の存在、自分の働きを通し、多くの人を、キリストの復活へと招き、そして、キリストへの信仰を促すという、大切な使命を受けております。
小川神父様の、長い司祭の生涯の中で、JOC全国指導司祭というお仕事がありました。1970年から76年、この6年間に、全国の青年労働者のために働かれているのですが、その間、非常に深く、強い体験をされたとのことで、神父さから話を聞いた際、司祭としての、牧者としての豊かさを、ますます備えられた時期ではないかと感じました。
わたしたちは、主イエスのように、「わたしを見る者は、父を見るのである」と、胸を張って言うことができるわけではありませんが、このわたしを通して、復活した主イエス・キリストが働いてくださるということを深く信じ、そして、この弱い、罪を犯す自分であっても、復活のキリストが、わたしたちを通して、人々を救い、導いてくださるということを、人々にあらわし、伝えていく役割を担っています。
わたしたち、キリスト者にとって、「死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠の住み家が備えられている」と信じ、この信仰を、これからも人々に宣べ伝えていきたいと思います。
今日、みなさまのお手元に配られました、記念のカードの裏をご覧いただくと、神父様の略歴が出ておりますが、その一番上のところに、詩編33章5節の言葉が記されております。
「地は父の慈しみに満ちている」。
主イエス・キリストが、十字架の上で、その血をもって、あがなわれたわたしたちに、神のいつくしみが注がれている。それだけではなく、神の造られた、この世界は、本来、神のいつくしみで満ちている場所です。
どうか、わたしたちが、毎日の生活の中で、神への感謝を新たにし、そして、神のいつくしみが、人々の前にあらわれているということを、わたしたち自身が、更によく悟り、示すことができますよう、お祈りをしたいと思います。