教区の歴史
サレジオ会司祭叙階式説教
2017年04月30日
2017年4月30日 復活節第3主日、碑文谷教会
受階者
ヨハネ・ボスコ 谷口 亮平(たにぐち りょうへい)
説教
みなさんのご親族、あるいは友人である、ヨハネ・ボスコ 谷口亮平さんが、間もなく、司祭団に加えられます。そこで、ご一緒に、この兄弟から、教会の中で、どのような奉仕の務めを行うために司祭に叙階されるのか、ご一緒に考え、分かち合ってまいりたいと思います。
ただいま読まれました、ヨハネの福音で、主イエスは繰り返し、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を献げます。イエス・キリストは、そのお言葉どおり、わたしたちのために十字架におかかりになり、命を献げてくださいました。
今日は、復活節第3主日であり、主日のミサでは、エマオへ向かう2人の弟子たちに、旅人の姿をしたイエスがご出現になったという、ルカの福音を伝えております。
わたしたちの教会は、「イエス・キリストの復活」という出来事の上に、復活されたイエス・キリストに出会った人々の体験の上に、教会が設立され、発展し、わたしたちは、そのイエス・キリストの復活の恵みにあずかる者とされております。
弟子たちは、生前のイエスの言葉の意味を、よく理解することができませんでした。
しかし、復活されたイエスに出会い、聖霊を受けて、生前の主イエスの言葉の意味を悟ることができました。
エマオへ向かう2人の弟子も、旅人の姿で現れたイエスから、モーセをはじめとする、旧約聖書の教えの解説を聞き、更に、日が暮れたときに一緒に食事をし、パンを裂く場面を共にして、はじめて、その人が復活されたイエスであるということを悟りました。
ご承知のように、このルカの福音の構造は、いまわたしたちが献げているミサ聖祭と、よく似ている。基本的に同じ構造ではないかと言われております。
さて、谷口亮平さんは、良い牧者になるという召命にあずかる者とされます。今日の第一朗読では、エレミヤの召命が告げられました。エレミヤは、まだ若い。そして、言葉を知らない。心細い状態であったのに、主からお召しを受けた。
そのとき、主なる神は言われた。「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。・・・見よ、わたしはあなたの口にわたしに言葉を授ける。」(エレミヤ1・8-9)。
谷口さんは、いま、サレジオ会の司祭となり、サレジオ会士として、主イエスの使命にあずかる者となります。それは、決して容易な務めではないと思います。
しかし、主なる神様が、エレミヤに言われたように、いま、復活された、主キリストが、あなたに言ってくださいます。「わたしはいつもあなたと共にいる。あなたを支え、教え、そして、力を与えます。」ですから、主イエスに信頼して歩んでください。
わたしたち司祭は、復活の証人となり、そして、良い牧者、キリストが羊のために命を献げた、その生き方を、自分自身の生涯の生き方とする決意を献げるものです。
今日、谷口さんの叙階式にあたり、更に、わたくしの念頭にあることを1つ付け加えて、谷口さんだけではなく、こちらにお集まりのみなさまの参考に供したいと思います。
それは、少し唐突ではありますが、いまの日本の子どもたちのことです。サレジオ会は、青少年の育成のために創立されたと理解しております。どうか、現代の日本の青少年のために力を尽くしてください。
「子どもの貧困」という言葉を、わたしたちは耳にします。わたしたちは、日本は豊かな国であり、そして、「貧困」という言葉は、日本には馴染まないというように思っておりましたが、現在の日本は、そうではありません。
「貧困」という問題がある。そして、弱い立場である子どもたちは、「貧困」という問題に出会っている。ある説明によりますと、6人に1人の子どもが「貧困」の状態にあるそうです。それは、「物質的並びに精神的な貧困」です。
きちんと栄養のある食事を摂ることができない。病院で治療を受けることができない。進学もできない。そのような状態に置かれている子どもさんが増えている。そして、その子どもを支える家庭、両親の在り方が、大きな問題に直面している。
ある意味で、危機的な状態にあるということが言われており、わたくしたちも、多分、そのように感じているのではないかと思います。「不登校」、「いじめ」、「自殺」という現象が、子どもたちを襲っています。
「わたしは、人々から愛され、必要とされています」という、誰しも持つべき「自己肯定感」、自分は大切な存在なのだという思いを、持つことが難しいと感じている子どもが、いま、日本では増えています。
どうか、子どもたちのために働いてください。そして、「あなたは大切な人だ」ということを教え、知らせるようにしていただきたい。
そのような務めを、ご一緒にして行きたいと思いますので、宜しくお願いいたします。