教区の歴史
イエズス会助祭叙階式
2017年03月04日
2017年3月4日 麹町教会マリア聖堂
受階者
ヨセフ・グエン・タン・ニャー
洗礼者ヨハネ・ファン・デュック・ディン
説教
みなさん、今日は、お二人のヴェトナムから来られた兄弟、ヨセフ・グエン・タン・ニャーさん、洗礼者ヨハネ・ファン・デュック・ディンさん、の助祭の叙階式が行われます。
助祭は新約聖書では、しばしば、「執事」という奉仕者と呼ばれています。
今日読まれた、第一朗読、使徒言行録6章では、ステファノをはじめとする7人が、もっぱら共同体の食事の世話をする奉仕者として選ばれました。彼らが、最初の助祭であると考えられております。食事の世話をするということは、非常に大切なことですが、更にさまざまな奉仕の仕事、とくに貧しい人のことを配慮することが、助祭の務めでした。助祭は教会共同体のさまざまな課題、運営、管理などの重要な責任を担うようにもなり、非常に重要な位置を占めるようになりました。
しかし、歴史の流れの中で、次第に、助祭の務めが忘れられたのでしょうか、わたしたちのラテン教会では、司祭職に至るための過渡的な助祭だけが、残って続いてきました。
第二ヴァチカン公会議の後、カトリック教会では、生涯、助祭として仕える、「終身助祭」の制度を再興し、典礼、司牧、社会福祉の仕事をとおして、生涯人々への奉仕の召命を果たす道を開きました。現在、世界中で多くの方々が、終身助祭として、教会共同体の中で大切な役割を担っております。
なお、典礼においても、非常に重要な任務を持っており、「荘厳に洗礼式を執行し、聖体を保管し、分け与え、教会の名において結婚に立ち会い、祝福し、死の近くにある者に聖体を運び、信者たちのために聖書を朗読し、人々に教え勧告し、信徒の祭礼と祈りを司会し、準秘跡を授け、葬儀と埋葬を司式する」などのことを執行することができます。
それはさておき、本日、助祭に叙階されるお二人は、司祭になる前の段階の助祭になりますので、程なく司祭に叙階される予定であると思います。グエン・タン・ニャーさん、ファン・デュック・ディンさん、お二人ともヴェトナム人であるということが、今回、わたしの心に大きな印象として残っております。お二人は司祭になり、司祭として働かれる。どちらでどのような任命をお受けになるのか、まだ分かりませんが、日本という文化で成り立っている国、しかし、非常に国際化が進んでいる、この日本の社会において、ヴェトナム人の司祭として、とくに、日本とヴェトナムの2つの国を橋渡しするために、力を尽くしていただきたいと思います。お二人は、すすんで助祭に叙階され、更に司祭に叙階されることを希望しています。かつて使徒たちによって愛のわざの奉仕者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者であるはずです。そして、お二人は生涯独身のまま、奉仕職を果たします。独身生活は、牧者としての愛のしるしと励ましであり、また、世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。ただ独身であるだけでしたら、そう難しいことではありませんが、貞潔で独身であり、修道誓願を守って生きる。人々の前に、「貞潔の意味、価値」を示しながら生きていくためには、絶えざる祈りと、神様のご保護が必要です。より自由に神と人々に仕えることに専念し、人々を神によって新たに生まれる者とするわざに、よりよく奉仕するように努めてください。信仰に根ざし、信仰を土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非のうちどころのない者として、自らを示してください。福音が告げ知らせる希望から目をそらさないでください。あなたがたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕する者であり、自ら信じたことをのべ伝え、のべ伝えていることを、ご自分で実行する者となってください。仕えられるためではなく、仕えるために来られた、主キリストにならい、さまざまな困難の中で、試練に出会っても、主イエス・キリストを思い、忍耐と勇気をもって、あなたがたの召命を全うされるよう、わたしたち一同、祈っております。