教区の歴史
パトリック宮崎翔太郎助祭・司祭候補者認定式
2017年02月19日
2017年2月19日 カテドラルの晩の祈りにおいて
説教
今日は、2月19日、年間第7主日です。
この晩の祈りの中で、助祭・司祭候補者認定式が行われます。式に先立って、今日の福音、そして朗読から、わたくしが感じていますことを、少し申し上げたいと思います。
イエスは言われました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
イエス・キリストの教えは、「敵への愛」であるということを、ほとんど誰でも知っていると思います。彼は、そのように教え、自分の教えを実行しました。そして、わたしたちも、そのようにするようにと命じています。
「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
そのように言われても、なかなか、そのようにはいかないという気持ちを持っております。もっとも、「愛する」ということは、「その人を好きになりなさい」ということではありませんので、たとえ、「嫌だ」とこちらが感じる場合でも、その人を憎んだり、その人の上に災いを望んだりはしない、そいうことはできると思います。
旧約聖書のレビ記でも、
「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」と教え、
「民の人々に恨みを抱いてはならない」と教えています。
「憎んではならない」、「恨みを抱いてはならない」と言っています。それは、はっきりとした、旧約・新約聖書を通しての一貫した教えてあります。
「憎んでいるか、いないか」、「恨みを抱いているか、いないか」、それを、誰がどのように判定するか。ゆるしの秘跡を受けるときなど、迷う点ですが、そのような気持ちを全然持たないということは、人間として不可能ではないかと、わたくしは思います。しかし、そのような心の動きが自分にあることを認め、そして、そのような気持ちに捉えられないようにする努力はできますし、「そのようにできますように」と祈らなければならないと思います。
昨年の11月20日まで、『いつくしみの特別聖年』でした。
「天の父がいつくしみ深い者であるから、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい」
という教えを、わたしたちは一年がかりで、更に深く学びました。
「人にいつくしみ深い者であれ」ということですが、その前に、どんなにわたしたちは、他の人から「いつくしみ」を被っている者であるかということを、この機会に、思い起こす必要がありました。自分の人生を振り返ると、いろいろな人から被った「恩(おん)」は、後になってから気付く。そのときは、あまりわからない。あるいは、全然わからない。後で、「あのとき、あの人はこのようにしてくれたのだ」と、両親をはじめ、いろいろな人から受けた「いつくしみ深い行い」を思い起こします。わたしたちは、いろいろな人から、「いつくしみ」を被っている。その「いつくしみ」は、考えてみれば、信仰の上から言えば、神様から来たものでありましょう。
「いつくしみ深い者でありなさい」ということは、難しいことではありますが、いつくしみ深くしていただいた、自分の過去を振り返りながら、「感謝を込めて、少しでも、いつくしみ深く生きること」は、十分に可能であると思います。そして、その「いつくしみ」というものは、聖霊の働きによるものです。神様は目に見えないし、聖霊も目に見えませんが、わたしたちが日々出会う人は、目に見える、毎日具体的な場面でお会いする人々です。その人々に、聖霊が働いているということを信じ、感謝を献げたいと思います。
今日、認定式を受ける神学生、宮崎翔太郎さんは、これから認定式、更に、朗読奉仕者、祭壇奉仕者の選任式を受ける、更に助祭の叙階を受ける、その後でやっと司祭になる。でも、司祭になれば、それは新しい出発点ですので、それから長い司祭の奉仕の日々が続く。そして、自分が信じたことを教え、教えたことを実行するように求められています。
自分が実行できていないことを人に言うということは、大変辛いものです。しかし、できていないからと、言わないわけにはいかないです。そのような思いを、全ての司祭は抱きながら、それでも、イエス・キリストを通してわたしたちに与えられた神の恵みを信じ、そして、出会う人々に神のいつくしみを現し、伝えていくことが、わたしたちの務めであります。
今日、宮崎さんのためにだけ、これだけの人が集まってお祈りしてくれるのですから、生涯忘れないで欲しい。困ったとき、行き詰まったとき、このことを思い出していただきたいと思います。