教区の歴史
世田谷南宣教協力体合同堅信式講話
2016年10月23日
2016年10月23日、年間第30主日、田園調布教会
講話
皆さん、こんにちは。この田園調布教会の聖堂はわたしの懐かしいところでございまして、大学生の頃、暫くこの教会に所属しておりました。今日、堅信式が行われますが、わたしもここで堅信を受けたのでございます。
それでは、いつくしみの特別聖年の祈りを教皇様が教えて下さった言葉に従ってご一緒に唱えたいと思います。
父と子と聖霊のみ名によって。
アーメン。
主イエス・キリスト、
あなたは、わたしたちが天の御父のようにいつくしみ深い者となるよう教え、
あなたを見る者は御父を見る、と仰せになりました。
み顔を示してくださればわたしたちは救われます。
あなたの愛に満ちたまなざしによって、
ザアカイとマタイは富への執着から解き放たれ、
姦通の女とマグダラのマリアは、
この世のものだけに幸せを求めることから解放されました。
ペトロはあなたを裏切った後に涙を流し、
悔い改めた盗人には楽園が約束されました。
あなたはサマリアの女に、
「もしあなたが神のたまものを知っていたなら」と語られました。
このことばを、わたしたち一人ひとりに向けられたことばとして聞かせてください。
あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。
何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、
無知と過ちの闇の中を歩む人々を、
心から思いやることができるようお望みになりました。
これら仕える者に出会うすべての人が、
神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように。
あなたの霊を送り、わたしたち一人ひとりに油を注ぎ、聖なるものとしてください。
神のいつくしみの聖なる年が、主の恵みに満ちた一年となり、
あなたの教会が新たな熱意をもって、貧しい人によい知らせをもたらし、
捕らわれ、抑圧されている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げることができますように。
この祈りを、いつくしみの母であるマリアの取り次ぎによって、
御父と聖霊とともに世々に生き、治めておられるあなたにおささげいたします。
アーメン。
父と子と聖霊のみ名によって。
アーメン。
いつくしみの特別聖年が始まる時に、教皇様が大勅書をお作りになって、更に、この祈りをわたしどもにお授け下さいました。この祈りは、特別聖年の意味、主旨を本当に簡潔に、見事に表現している祈りであります。
今日は世界宣教の日でありまして、わたしたち神の民は誰でも、全員、教会の使命である福音宣教、或いは福音化に召されている、福音宣教するように、この世界をより福音の精神に叶った世界に変えるために努力するようにと招かれております。そして今、わたしどもは教皇フランシスコの在位中の「いつくしみの特別聖年」を送っており、間もなく11月20日に閉幕致します。東京教区としましても、いつくしみの特別聖年を、心を込めてお祝いし、且つ、改めて教会の使命である福音宣教ということに、全員で、全ての信者、信徒が、それぞれのことを、それぞれの立場でできる、成すべき福音宣教をしていくということを申し合わせて、そして話し合いたいと思います。
折しも、明日から三日間、東京教区では司祭集会というものを致します。カテドラルで集まって話し合いと研修を行います。従来、どこかに出かけて行って泊りがけで研修をしたのですけれども、今年はカテドラルにお越し頂いて、わたしたちの使命をしっかりやって行こう、ということでございます。そして、司祭だけの集会におきまして、その司祭と司祭でない皆さん、特に信徒の方との協力或いは協働ということですね、ともに働くということを司祭の集まりで話し合い、そして更に、具体的にどういうふうに協働することができるかということを話し合う、そして、その結果を司祭評議会、教区の宣教司牧評議会に報告し、この課題を話し合う予定でございます。
さて、いつくしみの特別聖年、主イエスがわたしたちに示された大切な教え、それは天の御父がいつくしみ深い方であるということでありました。いつくしみ深いというのはどういうことかを主イエスはご自分のことばと行動、その生涯全体を通してお教えになりました。
イエスはたびたび天の父について話しました。たまりかねたのでしょうか、「どうかわたしどもに父を示して下さい、見せて下さい、そうすれば満足します」フィリポが言いました。
天の父は目に見えない方です。神は見えない方です。しかし、わたしたちが、神の愛を行なうならば、お互いに愛し合うならば、そこに神がおられるのです。そしてこのフィリポの場合、天の父を見たいという弟子たちに向かって、イエスが言われたことばは、「わたしを見るものが父を見るのである。」ということです。イエスを見るものは父を見る。そしてイエスを知るものは父を知るものであり、父がいつくしみ深い方であることをイエス・キリストは、ご自分の言葉だけでなく、ご自分の毎日の存在、行いによってお示しになった。
わたしたちは、四つの福音書を読んで、そして、イエスがいつ、どういうことをされたのかということを知ることができます。福音書はイエスに出会った人々の物語であります。いま、唱和して頂いた祈りは、その福音書の中でイエスに出会った人のことを簡潔に示されている。ザーカイ、徴税人のかしらと言われていたザーカイ、マタイも徴税人だったようです。
ザーカイとマタイ、この二人の生き方、この富ということについて、捕らわれていたであろう二人は、イエスとの出会いによって感動を体験した。姦通の女とマグダラのマリア、そして十二使徒全員そうですけれど、ペトロ、たいへん独特な、活動的な、愛すべき弟子でありますが、「わたしはどんなことがあってもあなたについて行きます。」そう約束したのですけれど、もろくも三度もその人を知らないと言ってしまった人であることをわたしたちは知っております。
十字架の上でイエスに並んで処刑された盗人、姦通の女、そしてサマリアの女、この人たちはイエスという人に出会い、イエスの心に触れた結果、新しく生まれ変わることができたのです。天の父を直に見ることはできませんでしたが、ナザレのイエスという一人の人間に接し、そして何人もの人が、イエスという人の心を自分の心と通わせるという、そういう体験をすることによって、天の父と出会ったのであります。
ところで、わたしたちはいま、教会の時代を生きているのであります。イエスは地上を去って行かれました。その時に言われましたのが、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と。聖霊降臨が行われてわたしたちの教会は設立し、そして聖霊をわたしたちに注いで下さったのであります。教会は、復活し、そして聖霊の派遣を通して教会を設立し、教会を通してご自分の使命を遂行して来られた、イエスの創られた神の民の共同体であります。そこで、教会がこの世において復活し、栄光に満ちた主のみ顔となりますように、ある程度、かなりある程度教会はイエスの復活を現している。確かにイエス・キリストは死に打ち勝つことによって、悪と罪に打ち勝たれたキリストが、ご自分の霊を神の民に与えて、そして、イエス・キリストの勝利、それがご復活であり、ご復活という光を灯される、この教会というのは復活のともし火、ともし火なのですが、復活のしるしと言いましょうか、わたしたちは、それでも依然として様々な思い、悩みに直面して、わたしたち自身が罪と過ちの中におります。
ご自分に仕えるものは弱さを身にまとうということはどういうことでしょうか。わたしたちは自分の弱さ、至らなさ、罪深い者であることを知っております。洗礼があって、そして堅信の恵みに与かりましたが、しかし、自分の中にある弱さを、依然として持っております。だからこそ、そのような弱さを持っている人のことを、思いやることができるのではないか。この「無知と過ちの闇の中を歩む人々」という表現は、少し問題に感じるかもしれませんが、イエス・キリストの弟子になっても、わたしたち自身が罪を犯しますし、弱さを持っている、そして言わば闇の中で光を灯そうと努めているのですが、本当の光は神様であるイエス・キリストから来ます。わたしたちは、イエス・キリストが、神よりの神、光よりの光、まことの神様であると信じます、と信仰宣言します。そのキリストは復活の光をもってわたしたちを照らし、その光をわたしたちに注いで下さるのですが、しかし、残念なことに、その光を受けるわたしたちの準備というものが足りませんで、依然としてわたしたちには、闇の部分が残っています。ですから、他の人が、イエス・キリストを知らない人、闇の中にいる人だからと言ってわたしたちは自分を誇ることはできないのです。
たまたまわたしは司教協議会で諸宗教部門という担当ですけれど、そこで諸宗教との対話と協力を推進する役目を持っております。仏教の方と一緒に、仏教の教えを学び、よく人間は煩悩というものを持っているというのですが、その中で、人間には三毒というのがあるそうです。
三つの毒の一つは、よく「貪欲」と言いますが、貪欲、つまり貪るのですね、人間は限りなく欲を持っておりまして、その欲望をきちんと納めるのが難しい。貪るという限りなく自分の欲望を満たそうとする、そういう傾きがあります。
二番目は「瞋(じん)」ということです。これは憤りとか怒りとか恨みとかいうことで、他の人に対して自分の思いが遂げられない時に生ずる感情が、憤り、妬み、憎しみ、ということだそうです。人間は神の創造の作品ですが、人間の心とは、常に難しい厄介な存在であることをわたしたちは知っています。
そして三つ目は「癡(ち)」というそうで、これは無明(むみょう)といって、「癡」というのは、病垂れに中が疑うという字で、あまり普段見ない難しい字ですけれど、この「癡」というのは、つまり、光がない状態、無明(むみょう)、無知。わたしたちは、自分は分かっているが他の人は分かっていないと言えるかどうか、最近つくづく思いますが、わたしたちも無明な存在ですから、人が間違っているときに、その人を見下したりすることはできない。人間は、闇の中で光を求め、光を見つけて照らすという、わたしたちがイエス・キリスト、復活したイエス・キリストという光を受けて自分を照らし、周りの人を照らすのであります。
いつくしみの特別聖年、復活したイエス・キリストに出会い、イエス・キリストから光を頂き、そしてその光をもって周りの人を照らすのが、わたしたちの使命であります。その光は、聖霊をとおして与えられます。今日行われる堅信式で聖霊の賜が、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心」が与えられます。聖霊のお恵みに従って、周りの人を照らし、助け、そして導くことができますように、ご一緒にお祈りしたいと思います。