教区の歴史
2016年カテドラル合同追悼ミサ
2016年11月06日
2016年11月6日、東京カテドラル
説教
主イエスは、今読まれた福音で、次のように言われました。
「わたしをお遣わしになった方のみこころとは、わたしに与えてくださった人を 一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6・39-40)
父である神のみこころは、イエス・キリストを通して、すべての人が救いに至ること、そして、永遠の命を得ることであります。 いつくしみ深い神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。すべての人は、死という門を通らなければなりません。今日は、特に、この「死」ということを深く考え、思うときであります。
今献げている死者のミサの叙唱で、「死」の意味を、美しく、簡潔に述べています。
「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たな命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています。」
第一朗読のイザヤの預言では、既に次のように言われています。
「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ25・7-8)」
なぜ、「布」という言葉が出てくるのかを調べましたところ、埋葬のに使う布や遺骸を包む布のことではないかという説明がありました。
父である神のみこころは、すべての人が救いに入ることであり、そのために愛する御独り子を、この世に送り、そして、御独り子が十字架にかかることさえ、おゆるしになったのであります。
わたしたち、人間にとって、「死」というものは、大きな神秘であります。人は死んだらどうなるのでしょうか。このような問いを、わたしたちはずっと持ち続けてきたのです。
先日、このカテドラル構内で、「司祭集会」を行いました。そして、芥川賞を取られた、臨済宗の僧侶で、玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)という方にお越しいただいて、われわれカトリックの司祭のためにお話をしていただきました。
その、玄侑宗久さんの芥川賞を取った作品が「中陰(ちゅういん)の花」でありまして、中陰という字は「中(なか)」という字に、陰陽の「陰(いん)」であります。
中陰とは、仏教で、人が亡くなった後、49日間過ごす状態のことを言うそうです。「49」という数字を、わたしたちは日本人として、良く耳にしていたわけであります。49日間、中陰に留まっている、とされています。
そこで、仏教では、その亡くなった人が49日後に新しい命へ入ることができるようにと、供養し、法要を営む、とされているようです。
カトリックの教えの中に、「煉獄(れんごく)」ということがあります。すべての人は、神から出て、神に戻るように招かれている。地上の生涯を終えて、神様の前に立つことができるように、わたしたちはいろいろな機会に、「浄め」ということを受けなければならない。神様の前にきちんと立つことができるように、わたしたち自身を整えていただかなくてはならない。地上に残ったわたしたちは、亡くなった方々が、神のもとにたどり着くことができるよう、祈りをもって、犠牲をもって、応援することができる。そういうように考えているわけであります。
今日、ここに集まったわたしたちも、亡くなった方のためにお祈りしようとして、ここにいるのであります。今日、亡くなった方のことを、しみじみと思い起こしましょう。わたしたちの両親、家族、友人、知人、いろいろな方を思い起こしましょう。
そして、その人たちを通して受けた、さまざまな恵みに、感謝を献げたいと思います。そして、更に、その方々に対して、なすべきことをしなかったという思い、あるいは、してはいけないことをしてしまった、という思いも、わたしたちの心の中にありますので心からのおわびを申し上げるようにしたいと思います。
また更に、亡くなった方々が、主イエス・キリストの復活の栄光に与ることができますよう、地上に残るわたしたちが、主イエス・キリストの取り成し、諸聖人の取り次ぎを願って、お祈りを献げたいと思います。
すべての人の救いを望まれる神は、必ず、そのための恵みを与えてくださいます。そして、その恵みを与えていただくために、わたしたちの祈りを求めておられると思います。
このカテドラルで眠りについている方々を特に思い、心静かに、いつくしみ深い神に、祈りを献げましょう。