教区の歴史

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2016年大司教着座記念ミサ説教

2016年08月28日

2016年8月28日、年間第22主日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今読まれました福音で、主イエスは言われました。  
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」  
イエスの「お返しのできないような人を招きなさい。」という教え。  
非常に明解な教えであります。しかし、この教えを実行することはやさしくはありません。  
考えてみれば、わたしたちの社会は「お返し」という関係で成り立っています。大げさに言えば、わたしたちの日々は「お返しをしたりされたりする」という連鎖反応の連続であるような気がします。このあり方を否定したら社会生活が成り立たないのではないでしょうか。  
そもそもわたしたちの生活は物を買ったり売ったりするということで成り立っている。 人を食事に招くときには、多くの場合、お世話になっている人たち、これからお世話になるだろうと思う人たちをお招きします。いわばその人たちへ好意を表明し、何らかのお返しをこちらも期待しているのではないでしょうか。  
しかしイエスは言われました。「お返しのできないような人を招きなさい。」山上の説教でイエスはさらに教えています。  
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6・3-4)  
わたしたちの善行は、隠れておられる神に向かって行うものであり、こうすれば相手からこうしてもらえるという期待をもって行うべきものではありません。そもそもわたしたちが持っているすべてのものは主なる神からいただいたものであります。  
「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」(1コリ4・7)と言われています。
すべての良いものは神からきます。わたしたちは、自分の行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるのであります。  
とはいえ、わたしたち人間の心というものは、実に厄介なものであり、お返しを求める期待するという気持ちから解放される、離脱するということは、難しいのではないでしょうか。  
今日の第二朗読を振り返ってみましょう。  
わたしたちの人生の旅路は、永遠の都へ向かう旅路であります。「生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」(ヘブライ12・22-24a)へ向かって、わたしたちは日々旅をしております。  
そして、主イエスは、わたしたちの旅路の案内人であり、わたしたちの道を照らし、わたしたちを守り、戒め、導いてくださる方であります。  
お返しを求めないということは、難しいことだと申しましたが、しかし、わたしたちは既にその体験を持っている。わたしたち自身、何かをしてもらおうと思って、良いことをしているとは限らないし、またそのようにしていただいたことを、わたしたちは思い出すことができます。  
わたしたちのなかに、そのような体験が既にある。それはつまり、わたしたちのなかに既に神の国が来ているということを、示しているのだと思います。そして、わたしたち教会こそ、その神の国が来ているということを現すしるしではないでしょうか。  
この社会は、こうすればこうしてもらえるという原則で、成り立っている社会かもしれませんが、わたしたちの間では、そのような法則から解放された、全くお互いに意識せず、相手からの報いを期待しないという、そういう関係が成り立っているのであり、そのことによってわたしたちはイエス・キリストの弟子であるということを示すことができると思います。  
さて、本日は皆さまに一つの冊子をお配りさせていただきました。これは、「平和のための宗教者の使命」という、2015年、日本カトリック司教協議会・諸宗教部門が開催したシンポジウムの記録であります。  
「ユネスコ憲章」の前文というのをご存知だと思います。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と言われています。わたしたちの心の中に、平和を妨げている、平和を脅かす、そのような心の動きがあるのではないだろうか。  
このシンポジウムで、お話くださった方が、仏教の教えを紹介しております。人の心には三毒、三つの毒ですね、三毒という煩悩があり、その三毒が平和実現を妨げている、という教えであります。  
三毒というのは、少し難しい字ですが、 貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)というそうで、
貪(とん)というのは、むさぼりの欲。
瞋(じん)というのは妬み、怨みということ。
癡(ち)とは無知、相手の立場、相手の気持ちを理解できないこころ、いつも迷っている、そういう心のことだそうであります。  
わたしたちのキリスト教の教えと、通うものがあるのではないか。多分、原罪という教えと通じるものがあるのではないでしょうか。  
わたしたちも日々、祈りのうちに反省しながら、本当に自分の心の中に、平和の砦を築くように祈り、そのための、聖霊の照らしを願いましょう。