教区の歴史

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武蔵野南宣教協力体・平和旬間ミサ説教

2016年08月13日

2016年8月13日、吉祥寺教会

[聖書朗読箇所]

説教

今年の「平和のための祈り2016」は以下の通りです。

平和の源である父なる神よ
どうかわたしたちに
「平和を実現する人々」となる恵みをお与えください。
今年は特に、「フクシマ・オキナワ」の問題を学びます。
わたしたちが、この問題をよく理解し、その解決のために
力を合わせ、知恵と勇気をもってともに働くことができますよう
聖霊を豊かに注いでください。
「この大地が、主を知る知識で満たされ、
すべての被造物が滅びへの隷属から解放され、
国が国に向かって剣を上げず、
もはや戦うことを学ばない」
という日の到来を心から待ち望んでいます。
わたしたちの主キリストによって、アーメン。  

今日はこの祈りを皆さんと分かち合いたいと思います。
まず、最初は、冒頭の「平和の源である父なる神よ」という言葉です。  
平和は神の賜物、聖霊の恵みです。「愛、喜び、平和」(ガラテヤ5・22参照)と並列されますが、平和は、神の助け、神の導きによってはじめて実現できる聖霊の実りです。弱い、罪のあるわたしたちは、平和のためにひたすら神の恵みを求め、祈らなければならないと思います。  

次に、「どうかわたしたちが、『平和を実現する人々』となる恵みをお与えください。」という言葉です。  
平和と言いましても、いろいろな次元がございます。平和はわたしたちキリスト者だけの問題、課題ではなくて、すべての宗教が目指す課題であり、人類誰もが目指す課題であります。  
日本カトリック司教協議会に諸宗教部門というところがありまして、そこでつくった『平和のための宗教者の使命』という冊子がございます。  
これは昨年、埼玉県の大宮教会で開かれたシンポジウムの記録でありまして、われわれカトリックの意見だけでなく、神道、それから、大本という宗教、それから天台宗の方が、それぞれ平和について思うところを述べておられて、たいへん良い内容でありますので、お読みいただきたいと思います。  
平和はどの宗教にとっても大切なことであり、平和は人間の心の問題とまず考えることができます。わたしたちの」中に平和に反する部分があります。  
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」  
ユネスコ憲章の前文にある有名な言葉です。  
心の問題。そしてさらに、この世界、この社会の中で実現すべき課題であります。平和に反する、最も反する大問題、いろいろありますが、何といってもこの戦争とか、紛争、殺戮、そういう出来事だと思います。  

三番目に、《オキナワ》のことです。沖縄の表記が、カタカナの《オキナワ》となっておりますが、これは、戦争‐第二次世界大戦あるいはアジア太平洋戦争の残した大きな課題を表しています。日本に置かれている基地、その基地から、基地のことから生じるさまざまな問題をわたしたちは知っています。どうしたらよいか。そういうことを一緒に考えなければなりません。  

それから、四番目がこの《フクシマ》であります。  
わたしたち、日本の司教たちは、沖縄のことはもちろんですが、福島のことも勉強しなければならないということで、専門家をお呼びして学習いたしましたが、物理学の初歩から勉強しないといけないと感じました。  
わかったことは、この広島・長崎に投下された原爆、原子力爆弾、それから日本各地にある原子力発電、これは原理が同じものです。原子核分裂という現象を使っての爆弾であり、発電である。悪いことに、人を殺すために使うと「爆弾」となり、電力を作るために使うと「発電」となります。「原子力発電」は「平和利用ですから大丈夫ですよ」というように聞かされてきましたが、ぜんぜん大丈夫ではなかったのです。  
わたしたちは、人間として、信者として、神様のお定めになった、神様のお望みになるこの地球の状態を実現しなければならない。神様の御心に反するような、思い上がった、自分勝手な、自分のためだけを考える、そういう行為をしてはいけない。自分たちのために便利だ、自分たちの生活にとって快適だ、そういうような理由から、わたしたちはいろいろなものを造り、そして、結果的に自分自身を苦しめる、自分たちに損害を与える結果を招いている。まさにこれは現代の「バベルの塔」ではないでしょうか。  

五番目に、「大地は主を知る知識で満たされる」という言葉です。  
これはイザヤの預言にでてくる素晴らし言葉です。  
フランシスコ教皇は、1年前に『ラウダート・シ』という回勅を出しました。この「ラウダート・シ」という単語は、「ほめたたえられますように」という意味を持っています。  
教皇は教皇位につくときにフランシスコの名前をお選びになりました。それは聖フランシスコの生き方に心から共感しておられたからだろうと思います。
聖フランシスコは、太陽、月、すべての被造物を、自分の母、兄弟姉妹と呼び、親しみを込め、敬意を込めて呼びかけました。  
わたしたちは、自然とつながっているものです。自然のおかげで存在し、生存しているのであります。考えてみればそうです。食べるものも、毎日吸う空気も、これは自然の賜物であります。そのことを忘れて、とんでもない思い上がりをしてきている。  
その結果、この自然破壊、環境破壊という現実を引き起こしているのではないか。教皇様の回勅『ラウダート・シ』は、そのことを指摘しております。
「大地は主を知る知識で満たされる」という表現は、環境破壊のない状態、人間と自然、人間と地球が和解している状態、神の支配が大地の隅々にまで及んでいる状態を指していると思います。  
そして、六番目に、「被造物が滅びへの隷属から解放される」という言葉。  
これも、不思議な言葉であります。パウロのローマ書8章にある言葉ですが、この被造物も「解放」されなければならないのだと。あまりそういうことを考えたことがないですけれども、被造物も「虚無」という悪の力に捉えられているとパウロは考えているのでしょうか。  
本来の、神様の造った世界。それは、第一朗読にあるような素晴らしい世界です。  
「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう」という言葉は、「獅子も草食となり。他の動物の肉を食べるということはない」という意味でしょうし、「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」という言葉は、「生物の間の対立というか、殺し合いということは本来無い」という意味でしょう。  
こういう風景を、イザヤという預言者が述べている。これは素晴らしい。いまの地上はまったくこういう現実からはかけ離れている。しかし本来そうなのだというように聖書は教えていると思います。  
「大地は主を知る知識で満たされる。」  
この教えに少しでも協力できますよう、わたしたちはまず自分の生活を改め、そして自分の国のあり方も改めていかなければならないのではないかと思います。  

最後に一言ですが、先ほどうかがった佐々木氏の講演についての感想です。日本の司教たちは、戦後50年、1995年に、反省の意を込めて、共同声明『平和への決意』を出し、さらにその10年後、60年、70年と、平和についての教会の責任の決意を述べてきました。そのような背景のなかで、先ほどうかがった話は、たいへん意義深いものであると思います。