教区の歴史
司祭叙階式説教
2016年04月16日
2016年4月16日(土)14時
麹町聖イグナチオ教会主聖堂にて
受階者 使徒ヨハネ角田佑一(イエズス会)
説教
皆さん、主イエスは故郷のナザレに会堂でイザヤ書63章を手に取り、「主の恵みの年」の到来を宣言しました。そのときからおよそ2千年が経過し、教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」を布告しました。昨年の12月8日、無原罪の聖マリアの祭日より本年の11月20日、王であるキリストの祭日までの日々が、神のいつくしみを特により深く悟り、そして神のいつくしみを告げしらせ守り行うべき、特別な恵みのときであります。
「いつくしみ」はラテン語のmisericordiaの日本語訳です。これを「憐れみ」と訳すことも可能です。
主イエスはルカの福音で言われました。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36 )
わたしたちも皆、〈憐れみ深い者〉となるよう求められています。〈憐れみ深い者〉となるとはどのように生きることでしょうか。
神のあわれみといつくしみはイエス・キリストの言葉と生涯によって、余すところなく示されました。
(以下祈り文)
主イエス・キリスト、あなたは、「わたしを見る者は天の父を見るのである」とフィリッポに言われました。(ヨハネ14・9参照)。あなたに出会った人々はあなたの愛に満ちたまなざしによって救いの喜びを与えられました。
福音書は主イエスによって罪と悪から解き放たれた人々の物語をわたしたちに告げています。ザアカイ、マグダラのマリア、ペトロ、サマリアの女の心打たれる話を思い出します。
どうかいまわたしたちにもあなたのいつくしみのみ顔をお示しください。今わたしたちの信仰を強め支えてくださるようお願いします。
あなたは、目の見えない御父の、目に見えるみ顔です。ゆるしといつくしみによってあなたは力強く救いの恵みを示してくださいます。
わたしたち教会が、この現代の荒れ野において、復活し栄光に満ちている主イエスのみ顔を表し示すことができますように。
わたしたちは弱いものです。日々過ちに陥ります。しかしあなたは弱さを身にまとうキリストの弟子たちを通して、無知と過ちの闇の中を歩む人々を、こころから思いやることをお望みになります。
どうかわたしたち、あなたに仕える者に出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることできますように。
どうかあなたの霊をわたしたちに豊かに注いでください。
わたしたちが、日々「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者思うことができるよう(ローマ12・9-10)導いてください。
わたしたちが新しい熱意をもって、貧しい人、孤独な人、病気の人、さまざま囚われに悩む人に救いの福音を告げ知らせることができますように。
さて今日は特に大きな喜びと恵みをいただく日です。
これからわたしたちは使徒ヨハネ角田佑一さんの司祭叙階式を行います。
司祭に叙階される使徒ヨハネ角田佑一さん、あなたは師であるキリストにおいて、司祭として教え導くという聖なる務めに携わる者となります。
自分自身が喜びをもって受け入れた神のことばを、すべての人に分け与えてください。
神のことばを黙想し、読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するよう心がけてください。
あなたの教えが神の民の糧となり、日々の行いがキリストを信じる人々の喜びとなって、ことばと模範をとおして、神の家である教会を築いてください。
あなたはキリストにおいて、人々を聖なる者とする務めを果たす者となります。この奉仕職によって信者の霊的奉献は、キリストの奉献に基づいて完成されます。キリストの奉献はあなたの手をとおして信者とともに祭壇の上で秘跡として祭儀のうちにささげられるのです。
自分が行うことをわきまえ、それを生活の中で生かし、主の死と復活の神秘を祝う者として、自分自身あらゆる悪に対しては死んだ者となり、新しいいのちのうちに歩むよう努力してください。
あなたは、洗礼によって人々を神の民に加え、ゆるしの秘跡によってキリストと教会の名のもとに罪をゆるし、聖なる油によって病者を助け、聖なる祭儀を司式します。
また、神の民と全世界のために、感謝と願いをこめて、日々定められた賛美の祈りをささげます。
こうした奉仕の務めを果たすとき、あなたは自分が神に仕える者として人々の中から召され、人々のために立てられたということを思い起こしてください。そして、自分のことではなくキリストのことを考えて、永遠の祭司キリストの務めを、まことの愛のうちに、喜びをもって果たしてください。
最後に、頭であり牧者であるキリストの務めをそれぞれの立場で果たし、司教と心を合わせ、司教に従って、信者たちがひとつの家族となるよう努力してください。
こうして信者たちを、キリストによって、聖霊のうちに、父である神のもとへ導くことができるのです。
そして、仕えられるためではなく、仕えるために来られ、失われていたものを探し求めて救いに導くために来られた、よい牧者キリストにならって生活するようにお願いします。