教区の歴史

教区の歴史

平和旬間2015 千葉地区「平和を願うミサ」説教

2015年08月09日

2015年8月9日、西千葉教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

イエスは山上の説教で言われました。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)

実に、平和の実現のために働くことはすべての人の重要な努めであります。

一体どうして戦争は起こるのでしょうか。


わたしは、毎年、平和旬間になるとユネスコ憲章の言葉を思い起こします。

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」


人間の心の中には、時として、物欲、不安、恐怖、疑惑、憎悪、敵意などの否定的な感情が生まれます。そういう感情が戦争の引き金になるのではないでしょうか。

戦争は多くの場合、自国の正義を主張し、自存自衛を理由に行われます。戦争は自国を守るために行われるのです。誰でも自分が一番かわいいのです、それは本能的と言っていい欲望です。対立する双方の国が同じように感じているのです。

自国存亡に危険を覚えるときに、国を守るためには相手を倒さなければならないとさえ考えることがあるのではないでしょうか。

そこには、相手国に対する不信、不安、反感、敵意などの、不穏で不安定な気持ちが働いています。太平洋戦争も日本の自存自衛を理由にして始められたのでした。

今日の「平和を願うミサ」のために選ばれた第一朗読は、「知恵の書」です。

「あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」(知恵11・25-26)

自分が存在するのは神のみ旨によるのであり、神の目に自分はかけがえのなし尊い存在なのです。

この聖書の教えは平和を考えるために極めて大切です。神は自分を慈しんでくださるのなら他の人の存在も慈しんで折られます。どんな人でも、自分にとっては受入れにくい相手でも、神がその人を、自分と同じように、大切にしてくださっているのです。

このことは平和を考えるときに心に刻まなければなりません。

平和を考えるとき、神はすべての存在を慈しまれる、というメッセージが大切な要点ではないかと思います。

誰でも大切で、なくてはならない、かけがえのない存在です。それなのに人は何故、憎みあい傷付け合うのでしょうか。その深い闇があります。

主イエスは憎しみにはとらえられませんでした。イエスは十字架によって「敵意という隔ての壁」と取り壊されたのです。

今日の第二朗読を思い出しましょう。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2・14-16) 

わたしたちは、それにもめげずに、十字架にかかった主イエスを信じ、平和の使徒として証を立てたいと望みます。

宗教とは敵味方を超えるものです。第二次世界大戦の悲しい結果を思い起こしながら、敵味方を超えて、すべての戦争犠牲者の平安を祈りましょう。

まず日本の側で戦争に参加し、あるいは敵の攻撃にあって亡くなられたすべての犠牲者のために祈りましょう。

そして日本からの攻撃によっていのちを落とされ、傷ついてすべての方々のために祈りましょう。

1986年、東京カテドラルで行われたミサの説教で、アジアの司教たちに向かって、日本司教協議会会長白柳誠一大司教は言われました。

「わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の二千万を越える人々の死に責任を持っています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します。

わたしたちは、このミサにおいて、アジア・太平洋地域におけるすべての戦争犠牲者の方々の平安を心から祈り、日本が再び同じ過ちを犯さないだけでなく、アジアにおける真の人間解放と平和に貢献するよう、教会としての責任を果たす決意を新たにします。」『「戦争から何を学ぶか」新世社、より』

この決意を実行するためには日々の努力が求められます。今年の平和旬間の祈りはその努力の目標を挙げています。

この課題実現のために努力し、この問題へ知恵と勇気をもって立ち向かいことができますように祈りましょう。