教区の歴史
平和旬間2015「平和を願うミサ」説教
2015年08月08日
2015年8月8日、午後6時、カテドラル関口教会聖マリア大聖堂にて
説教
主イエスは山上の説教で言われました。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)
平和を実現するということは、わたしたちすべてのキリスト信者の務めであるだけではなく、すべての人類の責務であります。
わたしは平和について考える時に何時の思い出す二つの言葉があります。
第一の言葉は「平和のとりで」という言葉であります。これは1946年に宣言されたユネスコ憲章に出てくる有名な言葉です。
すなわち、その冒頭の部分で次のように言われています。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。」
戦争の原因は何でしょうか。一般に貧困、差別、格差など種々の問題が考えられていますが、それと並行して、このような悪の現象が人の心のなかで、物欲、不安、恐怖、憎悪、敵意などマイナスの心の動きを引き起こし、戦争への引き金となるのではないでしょうか。このような戦争の原因を取り除ためにあらゆる努力をしなければなりません。
それにつけても思い出すのは日本国憲法の前文です。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人類相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
この決意をわたしたちは断固遵守し実行していかなければなりません。この決意を守るためにわたしたちは一切の戦力の保持を放棄したのです。それは心の中にわたしたちが「平和のとりで」を築くための大きなあかし(証拠)なのです。
その関連でも出だすもう一つの言葉は、「心の武装解除」という言葉です。これは日本カトリック司教団の戦後50周年平和メッセージ『平和への決意』の中に出てきます。
「わたしたちが目指す平和は、キリストの十字架と復活によって実現した神と人類との和解に土台を置いた平和です。信仰者としてのわたしたちの平和への歩みの中心には、キリストがおいでにならなければなりません。それは、キリストとの一致、キリストの支えと導きによっては初めて可能となることです。キリストは最後の晩さんの席で、『皆が一つになるように』という願いを込めて、感謝の祭儀を制定してくださいました。この感謝の祭儀をとおして、キリストは平和実現を目指して歩もうとするわたしたちを照らし、そのために力を与えてくださるのです。・・・・それは、キリストこそ、罪によって互いに憎しみ分裂するわたしたち人間の心に愛の火をともし、心の武装解除をなさしめ、傷ついた心をいやし、人類一致と恒久平和のための内的基礎を築いてくださるかただからです。(『平和への決意』より引用)
この「心の武装解除」という言葉を大切にしたいと思います。
きょうの第二朗読は、エフェソ書です。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります・二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはお出でになり、遠く離れていたあなたがたも、近くにいる人々にも、平和を告げ知らせました。」(エフェソ2・14-17)
キリスト者は、悪に対するのに悪をもって対抗するのではなく、悪に対して善をもって対抗し、悪に対して善によって打ち負かすよう、求められています。
この非暴力の精神は日本国憲法第9条によって具現しています。国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、また戦力を保持しない事をわたしたち日本国民は決意したのであります。
9条のおかげでわたしたち日本国民は、この70年、戦争によって誰も殺さず、戦争によって誰も殺されずに済んできたのです。
わたしたちは同じ神の子として、ともに祈り、ともに学びます。そのためにもまずわたしたちは異文化の人々、ことなる文化を生きる人々が互いに「触れ合い、助け合い、理解し合う」(「1995年の司教団メッセージ『平和への決意』より」よう努めなければなりません。
「平和のとりで」を築くために、また「心の武装解除」をするためには、そのために準備が必要です。
そのために環境を整える必要があります。ただ祈りだけでなく、その祈りの精神を実行しながら、そのための環境を醸成する必要があります。
ことしの『平和のための祈り2015』は、わたしたちキリスト者が日々行うべき努力目標を指し示していると思います。神の助けを願いながらこの課題に取り組んでまいりましょう。