教区の歴史
主の降誕(夜半のミサ)説教
2014年12月24日
東京カテドラル関口教会にて
説教
きょう、わたしたちはイエス・キリストの降誕を祝います。イエスは皇帝アウグストゥスのときにユダヤのベツレヘムで生まれました。
キリスト教という宗教はこのイエスをキリストである、救い主である、と宣言し、イエス・キリストは完全な人間であり完全な神であると宣言します。
皆さん、今日はご一緒に今読まれたルカの福音の伝えるイエス生誕の物語を味わってみたいと思います。
イエスの両親は、ヨセフとマリアです。二人とも貧しいユダヤ人でした。マリアは妊娠中であったのに、ナザレから遠いベツレヘムまで旅をしなければなりませんでした。
それは皇帝アウグストゥスにより住民登録するようにとの勅令が出たからでした。おそらくナザレとベツレヘムの間の距離は有に、100キロはあるでしょう。身重の身での旅ですからたぶん数日は要する旅路です。旅とは何時でも危険が伴いますが、当時はさらに危険なものです。
マリアはベツレヘムで子を生むことになりました。病院もないし宿屋にも泊まれないし、やっと馬小屋を借りて出産することができたのです。
救い主イエス・キリストはこのようにして馬小屋で産まれたと、ルカの福音書は伝えています。貧しい夫婦の、危険で不安な環境での出産でした。今日本ではこのような出産は非常に稀でしょう。
イエスはベツレヘムというローマ帝国の辺境の地の集落の馬小屋で生まれた貧しく小さな存在でした。イエスは最も貧しい者として生まれ、貧しい者として生き、そして惨めな十字架の最後を遂げたのでした。
クリスマスといえば喜び祝うイエスの誕生祝いの時ですが、実はイエスの生誕は人類の貧しさを共にするための誕生だったのです。
いまイスラエル・中近東で絶えざる紛争、殺戮、迫害、抗争があると報道されています。
それを聞くたびに、どうして同じ唯一の神を信じている民、つまり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の信者の間で殺し合いがあるのか、まったく理解し難く思うのです。
神の前に、幼子イエスように、謙遜で無力な小さな者として歩むならば、そこに神の平和が生まれ、このような惨事、紛争、殺戮、迫害、抗争は起こりようがない、と思うのです。この信仰の出発点に戻ることをわたしたちは真剣に考えるべきだと思います。
さて、今日はさらにマリアの夫ヨセフについて是非お話したいと思います。
このカテドラルの庭の西のはずれに、ヨセフの像が立っています。像には、「受けとめるヨゼフ」という銘が記されています。天使のお告げを受けとめているヨセフの姿を現しています。
許婚のヨセフは身に憶えのないマリアの妊娠を知り苦悩します。ひそかに離別しようと考えていたときに、夢の中で天使が現れ、マリアに宿った子は聖霊によるのであり、それは神がすでに預言者を通して言われたことが実現するためだとヨセフに告げました。
ヨセフは天使の言葉を信じ、マリアを受け入れました。ヨセフは素直にマリアの潔白を信じたのです。このヨセフの諒解がなければ、マリアはヨセフの妻になることができず、その結果、マリアは姦通の罪を犯した女として、石殺しの刑を受けることになるはずでした。ヨセフはマリアを受け入れることにより、マリアとその子イエスの生命を守ったのでした。
このヨセフの信仰は大いにほめたたえられるべきです。マリアとヨセフの間にあった互いの尊敬と信頼をわたしたちの時代の妻と夫はもっているでしょうか。
ヨセフは不言実行の人、神のみ言葉に従って誠実に行き、自分の役割を忠実に果たして静かに地上の生涯を終えた人でした。そのような生き方がいま求められていると思います。