教区の歴史

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待降節第三主日説教ー喜びの主日ー

2014年12月14日

小平教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

今日は待降節第三主日です。待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。(司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を使用することができます。)

本日の入祭唱は今日のミサの趣旨をよく示しています。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられているからです。

さらに第二朗読でパウロは同じ趣旨を簡潔に述べています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)

これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないでしょうか。

パウロの生涯は困難の連続でした。それにもかかわらずそのパウロがこのように言っているとは、実に驚きであります。まさに復活されたキリストと共に生きたパウロの体験から滲みでてきたことばではないかと思われます。

本日の第一朗読では預言者イザヤが言っています。

「わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍(おど)る。」(イザヤ61・10)  

また本日の答唱詩編は有名な「マリアの賛歌」(マグニフィカート)です。

「わたしの心は神の救いに喜びおどる。」(ルカ1・47)

このように本日の聖書朗読は「喜び」をテーマにしています。

「喜び」とは非常に幸福であるという感情、良いことに出会い非常に満足し、嬉しいという感情であると言われます。喜びは人生の中で味わう幸福の感情ですが、happyという英語が示しているように、偶然与えられる儚(はかな)い喜び、という意味も込められています。

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5・16)といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

この世界は過酷であり、人生は困難であります。この世界は、生きるのが難しい「荒れ野」ではないでしょうか。この世界は大きな闇で覆われているように感じることがしばしばです。

それでも例外的な人がいます。その人はいつも機嫌が良く、朗らかで楽しい人です。本当に羨ましい人柄ですが、そのような人は、「極楽とんぼ」と言われて、からかわれることがあります。この言葉には、人生の真実は厳しいのだ、暢気にしてはいられないよ、という意味が込められているように感じます。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

荒れ野に泉が湧いているように、この世界には永遠のいのちに至る泉が湧いています。夜の空に星が見えるように、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。イエス・キリストは荒れ野の泉、闇の中に輝く光であります。

洗礼者ヨハネは、キリストを証しするために来ました。キリストによって建てられたわたしたち教会は、このキリストの復活のいのち、復活の光を表し伝えるための証人であり、人となられた神イエス・キリストによってもたらされた永遠のいのち、復活のいのちを証しするために派遣されているのです。

わたしたち東京教区は洗礼者ヨハネに倣い、現代の荒れ野である大都会において、神を信じ神に祈る教会の姿を示し、また孤独な人,寄る辺のない人、病気や障害に悩む人の同行者、慰め励ます者、復活の希望の光を灯す者として歩んでまいりましょう。