教区の歴史

教区の歴史

町田教会堅信式

2014年07月06日

2014年7月6日 年間第14主日 町田教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

今日は堅信式が行われます。堅信は洗礼を受けたものに聖霊の恵みを授け、福音宣教する使徒とする、という秘跡です。

最近読んだ本の中で「忘己利他」(もうこりた)という言葉を知りました。これは読んで字のごとく、自分のことを忘れて人のために尽くす、という仏教の教えです。

この教えは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)というイエスの教えに通じる教えではないかと思います。

今日の第二朗読「ローマの教会への手紙」(8章)においてパウロも、このことに関して、霊に従う生き方と肉に従う生き方を対比させながら述べています。パウロは、「肉に従って歩んではならない、霊に従って歩みなさい」と言っています。

霊とは神の霊、キリストの霊、聖霊です。肉とは、肉体ということではなく、人を悪にいざなう悪の力、悪の原理のことです。

わたしたちは自分のことを忘れて人のために生きなければなりませんが、どうじに、神の霊=聖霊の導きに従って歩まなければならないのです。

今日の福音でイエスは言われます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-29)

イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。イエスの軛を負い、イエスに学ぶとは、イエス・キリストの霊を受け、霊の導きに従って歩むということです。「イエスの軛を負う」とはイエスの言われた「十字架」のことではないでしょうか。しかしこの十字架はイエスがともに担ってくださる十字架なのです。  確かに人間には自分のことを後回しにして人のために尽くすというすばらしい美しい面があります。他方、自分の楽しみを求め、自分の評判を気にし、人をうらやみ、嫉み、人を押しのけてでも自分の思いを通そうとする自己中心な面があります。

キリスト教では原罪という教えがありますが。それはいわば人間の業(ごう)のようなものでしょう。十字架を担うことに自己中心に打ち勝たなければなりません。

霊に従うためには何より祈りが大切です。そして自分の心の動きを見つめ、謙虚に反省することが必要でしょう。

パウロは教えています。霊に従って生きる人は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22-23)などの実を結びます。それに対して肉の業(わざ)は「姦淫、偶像礼拝、敵意、怒り、利己心、妬み」(ガラテヤ5・19-21参照)などです。

自分の思いではなく、神のみ心を求めて生きるということは、日々の戦いであります。聖霊の導きを切に祈りましょう。