教区の歴史

教区の歴史

麹町教会堅信式説教

2014年06月22日

2014年6月22日 麹町教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

6月8日の聖霊降臨の主日の午後、教皇フランシスコはヴァチカンにおいて、イスラエルのシモン・ペレス大統領とパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長を迎え、「平和を願い求める祈りの集い」を行ったと報道されました。集会にはコンスタンチノープル総主教バルトロマイ一世も出席されました。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はともに唯一の神を信じる宗教です。唯一の神とはつまり同じ神であるはずです。しかし、残念なことですが、この三つの宗教を信じる者の間で絶え間なく争いや戦いが行われて来ました。

神は自分の子どもたちが争い傷付けあい殺しあうことを決して望まれません。神の名によって戦闘が行われるとしたら、それは神のみ心を誤解して行っているのだとわたしは考えます。

唯一の神を信じる宗教は他の宗教を排斥する不寛容な宗教ではないか、という見方があります。キリスト教についてもそのような批判があります。それは間違った信仰理解ですが、歴史上、そのような過ちにとらわれた信者がいたことも確かです。

教皇ヨハネ・パウロ2世は紀元2000年の大聖年を迎えるにあたり、教会が反省すべき重大な事項のなかに「キリスト者の不寛容」があると指摘しています。 教皇は、「真理への奉仕に際しての不寛容、さらに暴力の行使を黙認してきたこと」があったと述べ、「真理は、やさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせない」(教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『紀元2000年の到来』35項参照)と言っています。

この表現で具体的に何を意味しているのかと考えてみれば、ユダヤ人迫害、十字軍などの出来事が含まれているのではないかとわたくしは推察します。

 

教会の使命は、福音宣教です。教会は聖霊降臨のときに誕生しました。使徒たちは聖霊降臨を期して、勇敢にイエス・キリストの福音を宣(の)べ伝え始めたのです。

今日これから授けられる堅信の秘跡は、洗礼を受けてキリストの弟子となった者に聖霊降臨の恵みである聖霊の7つの賜物を授けて、福音宣教するキリストの弟子とする秘跡です。

聖霊降臨のとき、聖霊は、民族と文化の違いを超えて、あらゆる国々人々を同じ父である神の子、同じキリストの体である普遍の教会として生まれ変わらせました。カトリック教会とは普遍の教会という意味です。

普遍の教会は、民族、国籍、言語、文化、場所などの相違を超えて、あらゆる人をキリストにおいて一つに結び、互いに認め合い、助け合い、支え合うようにと導きます。

来年2015年は信徒発見150周年の年に当たります。

日本には非常に優れた、よく養成された、立派な福音宣教者が派遣されました。カトリック教会は、教育、福祉、医療などの分野で日本の社会に多大な貢献をしてきたと自負できます。しかし依然として信者数は少ないままに推移しています。何故だろうと、考えさせられます。

日本人の目には、キリスト教とは戦争、紛争、争いにあけくれしている人たちの宗教、不寛容で排他的な宗教、と見えているのではないかと考えたりします。そう思われても仕方がない部分がキリスト教徒の歴史にあったのではないでしょうか。

わたしたちの教会はキリストの教会です。教会はキリストの体といわれます。それではわたしたちは十分にキリストの愛を現し伝えているでしょうか。

今日の福音でイエスは言いました。

「 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・56-57) 今日堅信の秘跡を受けられる皆さん、どうかキリストに倣って歩む者となってください。ご聖体を頂くたびに、ご聖体を訪問するたびに、悪に打ち克ち、キリストの愛を実行し、キリストの心を生きる決心を新たにする恵みを祈ってください。

異なる宗教、考え方、文化を生きる人々を受け入れ、認め合い、助け合うことができるよう、聖霊の恵みを祈ってください。

堅信を受ける皆さんを通してすべての人を慈しむ神の愛が輝き出ますように。