教区の歴史
灰の水曜日説教
2014年03月05日
2014年3月5日 東京カテドラル
説教
四旬節は罪を思い、悔い改めを行い、償いの犠牲をささげる時です。
イエスは言われました。
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これ見よがしの施し、断食などの犠牲はこの世でも報いを期待しての偽善的犠牲です。
イエスは言われました。
「見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの父のもとで報いをいただけないことになる。」
父の報いとはいつ、どのようにいただけるのでしょうか。それは神がお決めになることです。地上においてわたしたちが納得できるような、自分が望むような報いが与えられるとは限りません。犠牲がこの世で認められ評価されるならばもう犠牲の価値を失います。
この世には不条理なこと、納得できない苦しみが存在します。
東日本大震災の犠牲者はまさにそのような苦悩を味わっているのではないでしょうか。それは神から見捨てられるような思いに通じます。
この不条理な苦しみは、イエスが十字架の上で体験した、苦しみ、贖いとして神にささげてくださった苦しみなのです。
イエスは十字架の上で、大声で叫ばれました。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』 これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27・46)
神から見捨てられるような苦しみ、それは正に人生の不条理の苦しみです。
今日は次のパウロの言葉に注目したいと思います。
「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(ニコリント5・21)
イエスは罪を犯したことのない方、一点の汚れもない方でした。イエスはわたしたちの罪の結果を負ったのでした。
「罪が支払う報酬は死です」 (ローマ6・23) 罪は人を神の命から引き離します。イエスは人々の悪意と侮辱の前に苦しみ戦(おのの)きましたが、それだけでなく、さらに十字架の上で天の父から見捨てられる苦悩を味わったのです。
人はどんなに反対され迫害され虐待されても、「自分と共に神がおられる。神はわたしの潔白を知っておられる。神は自分の見方だ」と信じる限り、平安のうちに死んでいくことが出来るのでしょう。多くの殉教者は喜んでいのちをささげて信仰を証しました。
しかしイエスの死はそのような死ではありませんでした。イエスは「神から見捨てられると言う苦しみ」を体験して死んでいったのです。「罪とされる」とは「神から引き離される」と言うことです。イエスはわたしたちのために、わたしたちに代わって罪の結果を引き受けてくださいました。それはわたしたちの罪を償い、わたしたちに神の義を示すためでした。
「神はこのキリストを立て、その血によって、信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3・25)
信仰の闇を体験したといわれる聖人がいます。聖人でない罪人のわたしたちですが、神を信じる喜びを感じない、それどころか、辛くさびしい思いをすることもあります。そのようなときに十字架上のイエスの言葉を思い起こします。
詩篇の作者も神に向かって嘆きの声を挙げています。(詩篇22、88など)
(汚れた)霊に取り付かれた子の父親は言いました。
「(主よ)信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9・24)
神にささげる犠牲が、即、この世で報われるための犠牲になるとは限りません。しかし、この不条理=暗闇の向こうには復活の光が輝いています。
四旬節はこの不条理を信仰のうちに受けとめるときであると思います。