教区の歴史
神の母聖マリア・世界平和の日説教
2014年01月01日
2014年1月1日 東京カテドラル
聖書朗読箇所
第一朗読 民数記6・22-27
第二朗読 ガラテヤ4・4-7
福音朗読 ルカ2・16-21
説教
今日一月元旦はイエスの降誕の日から八日目であり、神の母聖マリアの祭日です。
イエスは生まれて八日目に「イエスと名付けられた」(ルカ2・21)のでした。
また本日は「世界平和の日」であり、この日のために教皇は毎年メッセージを発表します。教皇フランシスコの『世界平和の日』のメッセージは「兄弟愛」についてです。教皇は「兄弟愛は平和への道であり平和のための基礎である」と述べています。今日はこのメッセージを読んでわたくしが理解しあるいは考えた点をいくつか申し上げます。
「兄弟愛」は平和を築くために不可欠です。すべての人を兄弟として受け入れ大切にする兄弟愛がなければ公正な社会と堅固で持続的な平和を築くことはできません。
人が兄弟愛を最初に学ぶ場所は家庭です。家庭は平和の基盤であり平和へ至る最初の道です。家庭の使命は兄弟愛を世界に広めることです。
しかし人の心の中には時として、兄弟愛に反する悪、兄弟への嫉妬と憎しみが生まれます。
創世記はアダムとエバから生まれた最初の兄弟カインとアベルの物語を告げています。
カインとアベルはそれぞれ神にささげものをしましたが「主はアベルとそのささげものに目を留められたが、カインとそのささげものには目を留められなかった」(創世記4・4-5)のです。カインは嫉妬に駆られ、アベルを殺します。神が「お前の弟は、どこにいるのか」とカインに尋ねるとカインは言いました。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(創世記4・9) 「それはわたしの知ったことではない」という意味です。なんと悲しい言葉でしょう。カインは弟を兄弟ではなく自分の敵とみなしました。カインにとって自分だけが大切であり、兄弟は自分にとって邪魔な存在、自分の利益を損なう存在にすぎませんでした。利己主義は兄弟を自分の敵とみなします。
兄弟愛は隣人への無関心によっても実行が阻まれます。金持とラザロの話を思い出します。(ルカ16・19-31)
金持ちは毎日贅沢に遊び暮らし、自分の家の門の前にいる貧しいあわれなラザロには何の関心も寄せませんでした。彼はラザロを自分の兄弟として受け入れ、彼を助けなければならなかったです。この金持ちも利己主義に捉えられていました。
最後の審判のときに主イエスは言われます。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25・45)
現在何百万もの人が飢餓に瀕しています。他方有り余る食べ残しの食事が無駄に捨てられています。すべての人を養うに十分な食料が生産されているのにもかかわらず必要な人々の元には行き渡っていないのです。これも無関心からくる利己主義の結果です。
教会の社会教説が教えているように、「財貨は万人のためにある」のです。財貨を所有し管理する立場におかれている者は、財貨を必要とする人のために、貧困、飢餓、病気などで苦しんでいる兄弟のために財貨を活用しなければなりません。
兄弟愛は自分の出会う人の必要に心を開きます。あの有名なサマリア人の話は、兄弟愛は、民族や国家の枠を超えて、隣人の必要に自分をささげることである、ということを示しています。(ルカ10・25-37参照)
愛は隣人に悪を行いません。(ローマ13・10) この原則は国際関係にも適用されます。わたしたちは自国の立場を理解してもらう努力をしなければなりませんが、それ以上に隣国、あるいは他国の必要と要望を理解するよう努め、他国を損なう言動は厳に慎まなければなりません。
わたしたちは十字架によって敵意という隔ての壁を取り壊したキリストに倣い、国家と国家の間の対立と分裂を克服し、キリストのうちに新しい人類を造りだすよう求められています。(エフェソ2・14-16参照)
すべての政治活動、すべての経済活動も、兄弟愛の精神によって行われるのでなければ、地上に平和を実現することができないのです。
神の母聖アリアの祭日に当たり、聖母の取り次ぎにより、わたしたちに真の兄弟愛が与えられるよう、聖霊の導きを願って祈りましょう。