教区の歴史
書簡「『信仰年』終了に際して」
2013年11月24日
東京教区の皆さん
2012年10月11日より始まった「信仰年」は2013年11月24日の「王であるキリスト」の祭日に最後の日を迎えます。
前教皇ベネディクト16世は自発教令『信仰の門』において、「信仰の創始者であり完成者であるキリスト」(ヘブライ12・2参照)にならうようわたしたちを励ましました。ナザレのイエスの生涯はすべての信仰者の生き方の基準であり模範であります。
わたくしは「信仰年」を迎えるに際し、「大司教書簡『信仰年』を迎えるにあたり」を皆さんに送り、以下の5項目の実行を心がけるようお願いいたしました。
- イエス・キリストをより深く知る。
- 第二ヴァチカン公会議と『カトリック教会のカテキズム』を学ぶ。
- 「信条」を学ぶ。
- 典礼と秘跡、日々の祈りと黙想
- 信仰の愛のあかし
皆さん、今一度「『信仰年』を迎えるにあたり」をお読みいただき、この一年をどのように過ごされたのか、静かに振り返りのひと時を持ってくださるようお願いします。
「王であるキリスト」の祭日の福音(ルカ23・35-43)は、嘲(あざけ)られ 蔑(さげす)まれ 侮(あなど)られるイエスの姿を伝えています。イエスの十字架の上には「これはユダヤ人の王」という札が掲げられていました。兵士たちはイエスを罵(ののし)って言いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・37)
ここには惨(みじ)めな最期を遂げる「王であるキリスト」が描かれています。今日の第一朗読では、40年間ユダヤとイスラエルの王であったダビデが登場します。ダビデは理想的な王でした。そのダビデと対照的な王であるイエス・キリストを福音書は伝えています。
このイエスの屈辱的(くつじょくてき)な死はわたしたちを贖(あがな)い、わたしたちに罪の赦しをもたらすための死でした。イエスは敵を愛し、また自分を迫害する者のために祈るように教え(マタイ5・44)、自分の教えを実行しながら地上の生涯を終えました。イエスの生涯は罪人を赦し、罪人を救われる父である神の愛を表し伝えるために、ご自分をささげられたものです。わたしたちイエスの弟子は、主のしのばれた屈辱を少しでも耐え忍ばなければなりません。それは自分を迫害し、自分を軽蔑する者を愛し、その人のために善を願うことです。
罪人を愛するということは罪を見逃すことではありません。罪は罪、悪は悪です。罪ある人間を愛するとは罪人のために苦しむことであります。使徒パウロは言っています。「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ローマ12・17)「愛は隣人に悪を行いません。」(ローマ13・10)
神の創造されたこの世界になぜ罪や悪が存在するのかという問題はわたしたちを悩ませます。世界の不条理の前にわたしたちはたじろぎます。信仰とは悪の存在する世界で神の愛を信じて生きるということです。人生は試練の連続の旅路であり、悪との戦いの連続であります。
イエスは「主の祈り」を教えてくれました。「主の祈り」は福音の要約と言われています。イエスは悪と戦うことをわたしたちに教え、またそのために祈るように教えています。「わたしたちを悪からお救いください。」と。
この「悪」のギリシャ語原文は「悪霊」とも訳すことができます。わたしたちの戦いは「悪・悪霊」との戦いなのです。エフェソの信徒への手紙を読むと次のように言われています。
「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6・10-12)
悪との戦いは、この世界に存在する構造悪・社会悪との戦いであります。わたしたちは教会の社会教説を学びながら、地上に正義と平和を樹立するために尽力することを怠ってはなりません。社会の福音化のためにどのような努力をささげたのか、また東京教区の優先課題の実行のためにどんな努力をされたのか、今一度振り返っていただきたいと思います。
主キリストがみなさんを「光の子」(エフェソ5・8)として祝福し、支え、照らし、支えてくださいますよう祈ります。
2013年11月24日、王であるキリストの祭日
東京大司教 ペトロ 岡田武夫
追伸 信仰年にあたり主イエスの生涯に倣うために非常によいと思う祈りがありますので紹介します。
(マザーテレサの祈りと伝えられています)
イエスよ、評価されたいという思いから、愛されたいという思いからわたしを解放してください。
イエスよ、尊敬され賞賛されたい、という思いからわたしを解放してください。
イエスよ、侮辱される恐れから、 わたしを解放してください。
イエスよ、軽蔑され、叱責される恐れから 中傷される誤解される恐れから、
嘲笑され疑われるという恐れから、どうか主よ、わたしを解放してください。アーメン。