教区の歴史

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東京教区司祭叙階式説教

2013年03月03日

2013年3月3日 午後2時半 東京カテドラルにて

 

受階者

アシジのフランシスコ 古郡忠夫

使徒ヨハネ 森 一幸

 

第一朗読 シラ書34・9-20

第二朗読 コロサイ3・12-17

福音朗読 ルカ4・14-22a

 

(福音本文)

 [そのとき] イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。

 

皆さん、神の恵みにより、皆さんの祈りに支えられ、本日、ただいまより、

アシジのフランシスコ 古郡忠夫

使徒ヨハネ 森 一幸

の二名が司祭に叙階されます。

いまわたしたちは「信仰年」を過ごしています。「信仰年」を宣言された教皇ベネディクト十六世は2月28日に辞任されましたので、ローマの司教座は空席(セーデ・ヴァカンテ)となっています。そのような状況でお二人は司祭叙階を受けます。今日の司祭叙階式はわたしたちにとって実に感慨深いものがございます。

主イエスはお育ちになられたナザレでイザヤの預言を引用しながら、ご自分の使命の開始を力強く宣言されました。その使命とは神の恵みを告げ知らせすべての人を神の命へと招く、という福音宣教の使命であります。

「主の霊がわたしの上におられる。」(ルカ4・18)

イエスは主の霊である聖霊を豊かに受けた人でした。むしろ聖霊がイエスご自身の霊である、と言えるでしょう。イエスは聖霊の導きに従い、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追放し、十字架の死と復活によって罪に打ち勝ち、父のもとにのぼり、弟子たちの上に聖霊を注ぎ、教会を設立しました。いまイエスは教会を通してご自分の使命を継続し発展させておられます。

司教は使徒の後継者であり、司祭は司教の協力者です。司教と司祭は使徒の受けた使命を現代世界において遂行し実行するという任務を受けています。

司祭はその役割を受ける前に、長い年月をかけた準備の期間を過ごします。司祭を志す者はこの期間中、司祭の務めを果たすための養成(具体的には、人間的養成、霊的養成、知的養成、司牧的養成からなる全人的な養成)を受けます。今日はその準備の完成の日、そして任務へ向けて派遣される出発の日であります。

司祭は弱い人間でありながら神の仕事に与るものとなります。それが可能であるのはひとえに、司祭は、神の力である聖霊の助け、導きをうける人であるからです。司祭は自分の存在と任務はすべて神の霊の働きによることを深く悟り、人々の前に、自分の存在とすべての働きを通して神の栄光が現れるよう努めなければなりません。

神は、主を畏れ、主に祈り、主に信頼する、信仰深い、そして謙遜な人を通してその力を現されます。司祭はそのような意味での「神の人」であることが期待されています。

現在の日本で最も大きな問題は何かと言えば、この「神への畏れ」の念を持っている人が少ない、ということだと思います。実に、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1・7)であります。

現代世界に欠如しているもっとも大切な感覚はこの神への畏敬の念、超自然の存在を畏れ敬う心ではないでしょうか。神を畏れない所業があまりに多い世界にわたしたちは置かれています。神不在の世俗社会、消費と快楽の社会になっているといったら言いすぎでしょうか。

司祭は、神への畏れの感覚を伝えるものであってほしいと願っていますが、生涯にわたり、「神への畏れ」を説き伝えるというこの司祭の務めには弱い人間である司祭には容易なことではありません。司祭は自分の務めを実行するに際して多くのストレスを受け、自分を道から逸脱させようとする誘惑にも出会います。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」という主の祈りが心からの日々の祈りでなければなりません。

司祭の仕事する場合に、万事、自分の思うように進むわけではなく、挫折を味わうこともあります。どんなに熱心に働いても人々がその働きを理解し協力してくれるとは限りません。むしろ、無視され、誹謗され、陰口をたたかれることがあると思わなければなりません。

人間関係において、司教との関係も含めて、仲間の司祭との関係、信徒の皆さんとの関係がうまくいかない場合も起こりえます。

そのときに次のパウロのことば思い出してください。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3・12-13)

わたしたちは自分の兄弟のことをどれくらい分かっているでしょうか。ひろい心で兄弟を受け入れたいものです。また自分自身のことも兄弟に理解してもらう努力も怠ってはなりません。

他方、率直に兄弟を戒めることが必要になる場合もあります。愛を持って忠告してくれる兄弟を持つ人は幸せです。私欲を離れて無私の心で友のためを考えて助言し、一緒に苦しんでくれる友は得がたい真の友です。

またパウロは言っています。「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3・17)

司祭は主イエスの名において司祭の任務を行います。司祭の言うこと、行うことは主イエスの言うこと、行うことでなければなりません。おそれおののきながら任務を遂行してください。しかし、躓いても、倒れても、主イエスが共にいて、あなた方を赦し、癒し、立ち上がらせてくださいます。勇気と信頼を持って共に歩みましょう。