教区の歴史

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灰の水曜日説教

2013年02月13日

2013年2月13日 関口教会にて

 

第一朗読 ヨエル2・12-28

第二朗読 二コリント5・20-6・2

福音朗読 マタイ6・1-6、16-18

 

(福音本文)

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

今日から四旬節に入ります。四旬節は悔い改めの季節です。

   神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、

   豊かなあわれみによって、わたしのとがをゆるしてください。

   悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください。

   わたしは自分のあやまちを認め、罪はわたしの目の前にある。

   あなたがわたしをさばかれるとき、そのさばきはいつも正しい。

    (詩編51・3+4、5+6cd)

これは本日の答唱詩編です。「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」という前書きが着いています。ダビデの痛悔の詩編として有名です。

ダビデは部下のウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、その上、その罪を隠蔽するために夫のウリヤを戦場で死なせるよう仕組み、殺人の罪まで犯しました。しかしダビデには罪の自覚がありませんでした。

そこで主は預言者ナタンを彼のもとに遣わしていさめました。(サムエル下12・1-15)ナタンは、豊かな男と貧しい男のたとえを持って彼にことの重大さを悟るよう迫りました。

人事のように聞いていたダビデに向かってナタンは、「その男はあなただ」(サムエル下12・7)と断定しました。この一言はダビデの心にあたかも鉄槌のように振り下ろされたのでした。

そのとき判然と彼は自分の罪を知り、神に赦しを願って祈った祈りがこの詩編51であるとされ、古来、痛悔の祈りと呼ばれてきました。当初、ダビデは自分の行った重大な罪に対する自覚がなかったようです。ナタンの指導を受けて罪深い自分を知りました。

罪の自覚のないダビデの姿はそのままわたしたちの姿です。わたしたちは自分の罪を認めたくありません。光が差さないと部屋の中に落ちているほこりが目には映りませんが、朝日が差して、光が床に届くと、はじめてそこにはほこりやごみがたまっていることに気がつきます。

わたしたちの心はこの光の指していない薄くらい部屋のようなものです。明るい光が照らされてはじめて、目を覆いたくなるような醜い欲望と心の乱れがうごめいていることに気がつきます。

聖書を読み、よく祈り、霊的講話を聴き、神の光で心を照らしてくださるよう、祈りましょう。

四旬節はまた「施し」の季節です。今日のマタイの福音で主は「施し」についてわたしたちとって耳の痛いことを言っておられます。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6・1-4)

わたしたちはしばしば人のために良かれと願って何かよいことをしたり差し上げたりします。いわゆる「善行」をしています。

その際、どのくらい相手のことが、相手の事情、必要がわかっているのでしょうか?本当に人を助けるということは難しいことです。その人が本当に必要としていることは何でしょうか?「小さな親切、大きなお世話」と言います。押し付けになっていないだろうか?与える側の満足のため、自己満足のためになっていないだろうか?自分の名誉のための善行ではないのか?

わたしたちは、自分の評判・名誉・地位・面子などを大切にし、そのために犠牲をいとわない、というエゴイズムに犯されています。

純粋に人のために行う、清く無私の善意の施しを行うことができますよう、祈りましょう。