教区の歴史

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ヨハネ会誓願式説教

2012年10月20日

2012年10月20日 小金井教会にて

 

第一朗読 Iヨハネ4・7-12

福音朗読 ヨハネ12・23-26

 

(福音本文)

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

「神は愛です。」

この信仰告白はキリスト教の信仰の中心に位置しています。いうまでもなくこの告白は「神は存在する」ということを前提としています。「神が存在する」ことと「その神は愛である」ことをわたしたちは信じております。

しかしこの地、日本においてこの信仰に生きている人は決して多くはないでしょう。多くの人にこのように信じてもらうために祈り、そのために働くことがわたしたちの使命であります。

福音史家聖ヨハネ布教修道会の会員は各自が頂いた使徒職を通して神の愛を証し伝えるという召し出しを受けています。きょうは会員の皆さんがそれぞれその召命を確認し、誓願を新たにし、神のご加護を祈るときであります。

この現代の日本社会において、神の愛を信じるということは決して自明のこと、容易なことではありません。それは信仰を妨げる原因が、信じることを難しくする理由がこの世界に多数存在しているからです。

1)神が存在するのにどうしてこの世界には戦争、災害、病気、貧困等の悪が存在するのでしょうか?

これは古くて新しい問題です。昨年3月11日に東日本大震災が起こったときにも、この問いが発せられました。神は災害を引き起こしたのでしょうか?神は災害によって人間に罰を与えるのでしょうか?数え切れない人がこの疑問に悩み苦しみました。

神は万能であるといわれます。しかし万能の神が災害を3月11日の災害を起こらないようにはしませんでした。地震というものは自然界の法則にしたがって起こるものでしょうが、神はその法則を変更しませんでした。

いや変更できないのかもしれません。自然界における神の支配はまだ途上にあり、完成していないといえましょう。神は今世界を創造中であり、その完成のときにはこの「不具合」も解消するのだろうと思います。それは「新しい天と新しい地(黙示21・1)」が登場するときに実現します。

2)神の似姿である人間はどうして戦争や殺戮などの悪を繰り返すのでしょうか?また人間は善そのものである神によって造られたのに、どうして病気や障がいの苦しみを受けなければならないのでしょうか?

これも古くて新しい、永遠の問いかけです。神は人間に知恵と意志を与えたとき、結果的には人間に、間違えるという余地、罪を犯すという余地を残したままでした。神といえども人間の自由を奪うことができません。この意味で神はご自分の全能を制限している、といえましょう。

神は無からわたしたちを創られましたが、わたしたちを救うためにはわたしたちからの応答を求めています。神は一方的に人間を支配し人間に強制するということはしません。わたしたちの自由な応答を求めます。そこで、人間の自由の範囲で神の全能の行使は制限されているともいえましょう。

アウシュヴィッツの大量虐殺は改めて神の存在を問う事となりました。神はなぜこのような悲惨な殺戮が起こるのをゆるしたのか、という疑問が提起されたのです。

わたしたちはこの問いに応える言葉もありません。しかし、わたしたちはイエスの十字架を仰ぎます。イエスはなぜ十字架にかけられたのか?なぜイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで殺されていったのか?イエスは人類の悪を一身に受けるという苦しみを体験したのでした。イエスはわたしたちに言われます。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(ヨハネ12・26)

それは、自分の十字架を背負って従いなさい、ということです。おん子イエス・キリストは十字架によって罪を滅ぼされました。そのイエスは同じようにその弟子たちにも十字架を求めています。わたしたちはそれぞれ自分の十字架を背負ってキリストに従うよう招かれています。それは使徒パウロがコロサイの信徒への手紙で言っている通りです。

「今やわたしは、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1・24)

神の全能はイエスの復活と再臨によって完成する神の支配です。それまでは神のご自分の全能の働きを、忍耐をもって事実上制限されている、といえましょう。

 

わたしたちの使命は、神と共に苦しみ、神と共に悪を克服する戦いを戦うという使命ではないか、と思います。

今日誓願を宣立されるシスターがた、誓願金祝を祝うシスターがた、知恵と勇気を持ってこの戦いを戦い抜こうではありませんか。アーメン。