教区の歴史
受難の主日説教
2012年04月01日
2012年4月1日 関口教会にて
第一朗読 イザヤ50・4-7
第二朗読 フィリピ2・6-11
福音朗読 マルコ15・1-39
きょうは受難の主日、イエスのエルサレム入場を記念すると共に、主イエスの受難を深く黙想する日であります。
イエスは神と等しい方でありながら人間と同じ者となり、僕の姿をとられました。ご自身、まったく罪と関わりのない方でしたが、わたしたちのために、わたしたちの罪の結果である呪いをお受けになったのです。
今日読まれたマルコ福音書によれば、十字架上のイエス大声で叫んで言われました。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
マルコによれば、その意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。(マルコ15・34)
罪とは、神から離れている状態です。イエスは、ご自身罪をおかされなかったにもかかわらず、十字架の上で、父である神から見捨てられ、神から離される、という苦悩を体験しました。さまざまな苦しみ、心身の苦しみのなかで、神から見捨てられる苦しみがもっとも残酷な苦しみです。
神の沈黙を嘆く言葉です。愛する独り子イエスの受難の時、父は沈黙したままでした。「神の沈黙」をテーマにした『沈黙』という著名な小説があります。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、本日の答唱詩編である詩編22編の冒頭の言葉です。
「わたしの力である神よ、今すぐにわたしを助けにきてください。」(詩編22・20)
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすみません。御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださいます。」(詩編22・25)
この詩編は、苦悩の中でなお神への信頼を告白しています。
「イエスは大声を出して息を引き取られた。」(マルコ15・37)
イエスは何と言われたのでしょうか?ルカによれば「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)と言って息を引き取られました。
この様子を見ていた異邦人の百人隊長は強い印象を受けました。「本当に、この人は神の子だった。」
神の独り子は神から見捨てられる程の思いまで体験されたのです。それは、わたしたが「神が沈黙しているのではないか」というべき場面に遭遇した時に、信仰を新たにし、信仰を深くするよう励ますためではなかったでしょうか。
今年の10月11日は第二ヴァチカン公会議が開始して五十周年の日です。この日を期して、『信仰年』が始まります。『信仰年』を迎えるに当たりわたしたちの信仰を深めてくださるよう祈りましょう。