教区の歴史

教区の歴史

市川教会ミサ説教(四旬節第2主日・共同回心式)

2012年03月04日

2012年3月4日 市川教会にて

 

第一朗読 創世記22・1-2、9a,10-13,15-18

第二朗読 ローマ8・31b-34

福音朗読 マルコ9・2-10

 

ミサの中で唱える信仰宣言は、「天地の創造主、全能の父である神を信じます」です。わたしたちは、全能の神である唯一の神を信じています。

それはどのような神様でしょうか?神様はどんな方か?

ナザレのイエスは、神を父と呼び、父である神様がどんな方であるのかを、言葉とその生涯の行動によって解き明かしました。

イエスの生涯とイエスの言葉はイエス以前の歴史を前提としています。イエス前にはイスラエルの人々に自らを示された主なる神の歴史があります。

その歴史には神が遣わされたイスラエルの指導者、あるいは預言者が登場します。今日の福音で登場するモーセは神から派遣され、イスラエルの民をエジプトから脱出させた指導者、そしてシナイ山で神から十戒を授かった人でした。エリヤはイスラエルの王の時代の代表的な預言者です。預言者は神の言葉を民に告げる任務を神から受けた人です。

第一朗読に出てくるアブラハムはイスラエルの12部族の始祖、最初の先祖とされています。今日の朗読はアブラハムが独り子イサクを全焼のいけにえとして神に献げるよう命じられた出来事を告げています。

こんな理不尽な話があるでしょうか?このような神を信じることができるでしょうか?アブラハムは神を信じたのです。正直に言ってこの話、わかりにくいと感じませんか?

「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかった」(創世記22・16)と主の御使いは言いました。自分の子どもを殺せと言われて従うことが賞賛に値するというのでしょうか?このような神をわたしたちはどう受け止めたらいいのでしょうか?

「(神は)わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された」(ローマ8・32)とパウロは今日の第二朗読で言っています。これは明らかにイエスの十字架の死を指しています。実に「神は、そのおん独り子をお与えになった程にこの世を愛された」(ヨハネ3・16参照)のです。

アブラハムとイサクの話はイエスの十字架をあらかじめ指し示す出来事と考えられます。

イエスの生涯と言葉を学ぶためにはどうしても旧約聖書を学ぶ必要があります。

ミサの第一朗読は福音を学ぶための前提となっています。

また第二朗読のパウロの手紙はイエスの出来事を最初の教会でどのように説明していたかを示しています。

わたしたち日本文化の中で生きているものにとって、この神へのいけにえ、犠牲ということをどのように理解で出来るでしょうか?

「信仰年」が来ます。信仰を深める年です。といっても信仰は常に深めるべきです。今回の信仰年は第二ヴァチカン公会議開催50周年を記念するためです。

教皇ベネディクト16世は、「信仰年」に当たり、『カトリック教会のカテキズム』を学ぶようにと勧めています。教皇様と教皇庁、そして日本のカトリック教会の間には距離があり、隔たりがあります。皆さんも戸惑いを感じておられるかもしれません。教皇様と日本の教会の間をつなぎ、橋渡しをするのが司教の役割だと考えています。

西洋とはかなり異質な文化伝統の国である日本に伝えられたキリスト教の信仰をどのような言葉と表現で、伝えることができるでしょうか?

皆さんは自分の信仰をどのような言葉でどのように表し伝えますか?自分の言葉で、「天地の創造主、全能の父である神」とは、どのような方であると語ることができますか?誰でも自分の言葉、自分の表現で、神への信仰を伝えるよう求められています。

これはわたしたちひとり一人の大きな課題であります。「信仰年」を迎えるに当たり、わたしたちの信仰を深めていただけるよう祈りましょう。