教区の歴史
潮見教会説教(年間第27主日)
2011年10月02日
2011年10月2日 潮見教会にて
第一朗読 イザヤ5・1-7
第二朗読 フィリピ4・6-9
福音朗読 マタイ21・33-43
先週、先々週の主日の福音に引き続き、今日、年間第27主日の福音も、ぶどう園のたとえ話です。
ぶどう園の主人は農夫たちにぶどう園を貸し与え、収穫を受け取るために農夫たちのところに僕たちを遣わしました。しかし農夫たちは僕たちを拒否します。そこで主人は最後に跡取り息子を派遣しますが、農夫たちは息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。その結果、主人はぶどう園をほかの農夫たちに貸すことになります。
主人は、主なる神、農夫たちはイスラエルの指導者たち、僕たちは 預言者たち、息子はイエス・キリストを指しています。
主なる神はイスラエルの民をエジプトにおける隷属から解放し、カナンの地に導きそこに定住させました。本日の答唱詩篇はそのことを次のように言っています。
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、
ほかの民を退けてそこに飢えられた。
まわりが耕され、その木は根を張り、おい茂った。
しかし、第一朗読イザヤ書ではまた次のように言っています。
わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸いぶどうが実ったのか。(イザヤ5・4)
ユダヤ人はイエスの招きを拒みイエスを十字架につけて殺させてしまいました。その結果、神の国の福音は異邦人にのべ伝えられました。使徒パウロは異邦人の使徒でした。パウロはローマ書において、異邦人がイスラエル人より先に救いにあずかる次第を語ります。
そのパウロがフィリピの教会宛に手紙を出しています。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4・6)
人生は心配の連続です。思い煩わないように、といわれても実行は難しいと感じます。しかし、思い煩いではなく、冷静、賢明、勇気、そいて神への信頼が何より大切なのだと思います。パウロはいかなる場合であっても神への信頼を説いています。しかも、この手紙を出したときパウロ自身は牢獄につながれていました。そのような状況でフィリピの教会の人々へこのような勧めを与えることができたとは実にすばらしいことです。
パウロはまた次のようにも言っています。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4・4-5)
毎年、待降節第3主日の入祭唱で唱えられるパウロのことばです。パウロは牢獄でこの言葉を述べたと言われています。
牢獄の中でパウロがこのような勧めを送ったとは実に驚くべきことではないでしょうか。
ところでこのようにパウロが書き送ったフィリピの教会に実は問題があったようです。信徒の間に深刻な抗争があったという考えがあるのです。(エポディアとシンティケと言う二人の有力信者の間の争いである、という推測がなされています。)
パウロはフィリピの教会を特に愛していました。フィリピの教会はパウロが創設した教会でした。(創設の次第は、使徒言行録16章に記されています。)
パウロはやむにやまれない思いを抱いてこの手紙を出したのかもしれません。
パウロは、「主において同じ思いを抱きなさい」(フィリピ4・2)と言って和解を勧めています。そう考えると、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます」あるいは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」というパウロの言葉はより深い意味をもってわたしたちに迫ってくるような気がいたします。