教区の歴史
平和旬間 多摩西宣教協力体 平和を願うミサ
2011年08月15日
2011年8月15日 八王子教会にて
第一朗読 黙示録(11・19a、12・1-6,10ab)
第二朗読 コリントの信徒への手紙(一コリント15・20-27a)
福音朗読 ルカによる福音(ルカ1・39-56)
本日は、聖母の取次ぎにより第二次大戦で尊い命を落とされたすべての人、敵味方を問わず、戦闘員、非戦闘員を問わず、すべての戦没者のために、永久の安息を願って祈りましょう。
今日の第二朗読、コリントの教会への手紙において、キリストは死者の中から最初に復活した人(初穂)であり、すべての人はキリストの復活のいのちに与ることを希望することができる、と教えています。本日祝う聖母マリアはまさに、キリストの次に復活に与った人といえます。
キリストが再臨されるときに世の終わりが来ます。「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。」(一コリ15・23-25)
「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に引き渡されます」と言う表現は今日のマリアの賛歌に言葉を思い起こさせます。
「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者を引き降ろし、身分の低い者を高くあげ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
ここでいわれていることは、いわば革命的な内容であり、現在の体制の逆転を意味しています。平和とは誰もが人間として大切にされている状態、差別、圧迫、虐待、貧困、暴力 などによる支配のない状態、現体制の完全な変革によって実現します。神はおとめマリアを通して、そのような世界の実現を意図していることを示されました。
世の終わりには神の完全な支配が実現します。それは完全な神の平和であります。敵が滅ぼされる状態です。あるいは、敵がもう敵ではなくなるとき、ともいえないでしょうか。
イエスはご存知のように。「敵を愛しなさい」と教えました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5・44-45)
「敵」とは何でしょうか?誰でも知っていますが、いざ定義するとなると難しいことに気がつきます。ある辞典を引いてみます。
「【敵】戦い・競争などの相手。敵。何らかの意味で自分の相手になるあいつ。自分に害を与える者として、機会があればその存在をなくしたいもの。広義では邪魔になるものを指す。」
どうも敵とは存在しないで欲しいもの、迷惑で邪魔な存在らしいです。でも人は誰の迷惑にもならないで済むでしょうか?誰も自分にとって迷惑でないと言えるでしょうか?人はお互いに迷惑を掛け合っている存在ですし、そのことを諒解し合って、赦しあっている存在ではないでしょうか?いわば人は広い意味での敵同士なのですが、同じ人間として友となり助け合っていかなければならないし、そのことを知っているのです。
8月6日、世田谷北宣教協力体の平和旬間行事が世田谷教会で開催され、「人はなぜ戦争するのか」をテーマとするフォーラムがありました。そのなかである哲学者の説が紹介されました。(レヴィナス、田畑邦治氏により)「戦争の本質は他者への憎しみであり、憎しみは自分とは異質な存在へ向けられる感情である」と言う説明であったと理解しました。
8月15日を韓国では光復節というそうです。光をまた見た日と言う意味だそうです。35年間にわたる日本帝国の韓国・朝鮮支配は筆舌に尽くせないほどの苦悩と屈辱を朝鮮半島に人々にもたらしたのでした。自分たちを迫害し蹂躙し侮辱した人々とその子孫に好意を抱くことは人間として困難です。しかしうれしいことに、1995年の夏、日本と韓国の青年は一緒に食事をし、同じミサに与り、自分たちが同じ人間であり、同じ神を信じるものとして和解の恵みを受けました。もはや敵ではない、という共通理解に達したのであり、本当によい体験をしてくれたと思います。
人は自分の力で神のおきてを守り、自分の義をたてることはできません。ただ、十字架を通して示された神の義、神の憐れみ、赦しを信じて神の義となることができるのです。
十字架のもとでわが子が惨殺される場面に立っていた聖母、魂が剣で刺し貫かれた聖母は十字架によって敵意と言う隔ての壁を取り除かれたイエスに最も近くに佇んだ人、そして人類の平和のために最も近くで協力した人でした。
聖母は人類の隔ての壁、敵意と憎悪の誘惑に打ち勝たれました。すべての人の母である聖母の取次ぎによって祈りましょう。
主イエスよ、わたしたちの心から、敵意、憎悪というこの壁を取り除いてください。わたしたちが自分のうちにある自己中心の心に打ち勝ち、世界の平和のために働くものとなることができますように。