教区の歴史
平和旬間 世田谷北宣教協力体ミサ説教
2011年08月06日
2011年8月6日 世田谷教会にて
第一朗読 イザヤ書(イザヤ32章15-20節)
第二朗読 コロサイの信徒への手紙(コロサイ3章12-15節)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章43-48節)
世田谷北宣教協力体の皆さん
ことしは中央地区の平和旬間行事の企画・準備を担当していただき、ありがとうございました。先ほどは、講演会とフォーラムが行われ、わたくしも参加し、多くのことを学びました。神父様方、担当された委員の皆さん、参加された皆さんに感謝申し上げます。
今日のミサの福音はマタイによる福音5章(43-48節)で、誰でも知っている有名な箇所です。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5・44節)
敵とは誰のことでしょうか?敵を愛するとはどういうことでしょうか?
今日はこの、実行が難しいと思われるこの教えについて改めてご一緒に考え、主イエスの教えに従って生きることができよう、祈りたいと思います。
1995年、敗戦50年の夏、わたくしは浦和教区の青年を韓国のソウル教区の教会(小教区)に派遣しました。青年たちは韓国の青年と共に祈り共に食事をしました。帰国した青年から報告を聞きました。
「韓国の青年から『日本人は鬼か蛇みたいなひどい国民と思っていたが、会ってみると自分たちと同じ人間であることがわかった。』と言われてショックを受けました。」
自分たちが鬼か蛇みたいな残酷な人間であると思われていたという事実に日本の青年は驚き傷つきました。いわば自分たちは韓国の敵であったわけです。35年にわたる日本帝国の韓国支配がありました。そう思われても仕方がない不幸な歴史がわたしたち両国 の間にあったのです。
わたしも似た体験があります。ローマ留学中のこと、韓国人の司祭がわたしに激しい怒りを表明したことがありました。朝鮮半島分断の原因を作ったのは日本帝国主義であるとの議論からでた日本人司祭への激しい憤りでありました。しかしこの事件をきっかけにわたしたちの間のわだかまりが解け始めたと思います。
日本人も韓国人も同じ人間なのだ、と言う発見は平和を考えるために大きな意味があると思います。まして同じ神を信じていること、同じ司祭であるという相互の理解は和解と平和のために大切な基礎となります。
「平和は、人と人とが触れ合い、助け合い、理解し合うことによって、深められていくものです。それぞれの立場で、それぞれの可能な分野で、国際交流をはかり、平和な世界の実現のために貢献していきたいと思います。」
これは、1995年に日本カトリック司教協議会が発表した『平和への決意―戦後五十年あたって―』というメッセージの一節にある言葉です。
人間とは自分がよく知らない人々に対して不安を抱き、自分たちと異なる宗教・文化・習慣を生きる人には違和感を抱きます。自分たちの存在を脅かすあるいは否定する人たちとこちらで考えるならば、その人たちに対して、敵意、恐怖、憎悪を抱くでしょう。先ほどのフォーラムでレヴィナスと言う哲学者の説が紹介されました。(田畑邦治氏)「戦争の本質は他者への憎しみであり、憎しみは自分とは異質な存在へ向けられる感情である」と言う説明であったと理解しました。
『平和への決意―戦後五十年あたって―』は1995年、第2次世界大戦が終わって50年を記念して、日本の司教団によって長い時間をかけて審議されて決議された、当時の司教全員による平和メッセージです。このメッセージの作成に大きな影響を与えたのは、ヨハネ・パウロ2世教皇の『紀元2000年の到来』という使徒的書簡でした。教皇はこの書簡の中で、紀元2000年を迎えるに当たり教会の子ら(今日のメンバー)が反省すべき事項を挙げています。そのなかに不寛容の問題を指摘しています。「何世紀にもわたって真理の奉仕において不寛容であったこと、暴力の行使も黙認したこと」を指摘しています。(35項)これは具体的には何をさしているのでしょうか?十字軍、異端審問、ユダヤ人迫害などを含むと考えられます。同書簡は第二ヴァチカン公会議の非常に美しい教えを引用しています。
「真理は、やさしく、そして強く心にしみこむ真理そのものの力によらなければ義務を負わせない。」(『信教の自由に関する教令1』
カトリック教会の信者は、異なる信仰理解、異なる宗教を信じる人々を迫害し処罰し時には処刑したこともあるという歴史上の事実をいまはっきりと認識しなければなりません。
教皇ヨハネ・パウロ2世が指摘している反省事項はさらに全体主義政権による基本的人権侵害の黙認にも及びます。「わたしたちはどうして識別の欠如を嘆かずにいられましょうか。それは時々、黙認に陥り、多くのキリスト者は、全体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごしてしまいました」(36項)とのべています。
20世紀は戦争の世紀でした。二度にわたり世界大戦が行われ多くの命が失われました。第二次世界大戦は全体主義政権による侵略によって引き起こされました。多くの場合、戦争は自衛を理由に始められ、交戦相手国を自国の存在を脅かす存在としています。その存在自体が自国への脅威とされるのです。
戦争に関して旧約聖書をよみますと、イスラエルのカナンへの移住に際して神が全住民を殲滅し皆殺しにするように命じたとされています。(申命記7・1-5など参照)これは今日では理解しがたい考え方です。神が本当にそのような命令をイスラエル民族に出したのでしょうか?
わたしは、当時の神理解の限界がそこにあると思います。彼らは、イスラエルの神と言う狭い神理解を持っておりました。イエスの示した神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」父なる神なのです。
戦争に訴える為政者は常に正しいと思わせるための理由・動機を提示します。アジア・太平洋戦争に際して、カトリック教会においても、正しい戦争(正戦)、あるいは聖なる戦争(聖戦)が主張されたのは、当時の教会の神理解、つまり当時の神学の限界にもよるのではないでしょうか。
今日の第2朗読を改めてしみじみ味わいましょう。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」
(コロサイ3・12-15)