教区の歴史
鴨川教会説教(年間第18主日)
2011年07月31日
2011年7月31日 午前10時 鴨川教会にて
第一朗読 イザヤ書55章1-3節
第二朗読 ローマの信徒への手紙8章35節、37-39節
福音朗読 マタイによる福音14章18-21節
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その仲の病人をいやされた。」(マタイ14・14)
「深く憐れむ」と訳された言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイ」という動詞です。この言葉は、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉で、「はらわたする」と訳した人もいます。
イエスは人々の苦しみ、悲しみ深く共感しました。イエスは罪を除いてまったくわたしたちと同じ人間となり、人間としての苦しみ、悲しみを自分のこととしてつぶさに体験されました。このイエスの生き方は父なる神の愛をそのまま示すものです。
わたしはここで旧約聖書のホセア書の言葉を思い出します。
「ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。」(11・8-9)
イスラエルの神は民の不義に激しく怒る神ですが、同時に憐れみに胸もつぶれるような思いをされる神であります。イスラエルの神は人間を赦す神であり救いあがなう神であります。
このイスラエルの神の愛を使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で説いています。
〈人は皆罪人であり神の前に正しい人は誰もいない。誰も神のおきてを守ることができないからです。しかし神はイエス・キリストを立て、その血によって信じるもののために罪を償う供え物とされました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、イエス・キリストを信じることにより正しい人とされるのです。神はイエス・キリストの十字架を通して神の愛を示されました。罪人を愛し罪人を救おうとする神の愛は十字架において余すところなく示されたのです。(「ローマの信徒への手紙」1-8章の要旨)
第二朗読でパウロは言っています。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。)(ローマ8・38-39)
東日本大震災はわたしたちの信仰への挑戦でもありました。もし神様がおられるならどうしてこのような災害が起こるのでしょうか?無垢の民が命を失い恐怖に襲われなければならないのでしょうか?
わたしは、わたしたちの神はイエス・キリストの神であり、わたしたちと共に苦しみ悲しんでくださる神だと信じます。
7月10日の年間第15主日の第二朗読はローマの信徒への手紙の8章でした。パウロは、被造物も解放されるときを待っていると言っています。実は、救われ贖われなければならないのは人間だけではありません。人間以外の被造物も贖われ解放されなければならないのです。
神は日々新しい創造を行い、やがては世界・宇宙を「新しい天と新しい地」に変えて神の国を完成してくださいます。この信仰と希望を新たにして歩みましょう。
今日堅信の秘跡を受けられる皆さん、どうか聖霊の賜物を豊かに受けて、神の愛を深く悟り、神の創造の働きに協力する、よきキリストの協力者となってください。