教区の歴史
聖香油のミサ説教
2011年04月21日
2011年4月21日午後2:00 カテドラル関口教会にて
第一朗読 イザヤの預言(イザヤ61・1-3a6a.8b-9)
第二朗読 ヨハネの黙示(黙1・5-8)
福音朗読 ルカによる福音(ルカ4・16-21)
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げしらせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
今年も聖香油のミサの日を迎えました。今わたしたちの国、日本は東日本大震災の只中におります。
毎年読まれる今日の福音ですが、このイザヤ書の言葉はいまのわたしたちの置かれている状況の中でどのような意味、どのようなメッセージをもっているのでしょうか。
わたくしは復活祭後、4月25日に仙台教区を訪問いたします。どのようなメッセージをもっていくことができるでしょうか。
主の霊の働きに信頼し、聖霊の導きを受けながら、被災地の皆さんに、解放と癒し、安らぎ、救いの希望のしるしを届けることができますよう皆さん、祈ってください。
今わたしたちは厳しい現実の中で無力を感じます。
わたしたちの神はこのわたしたちの弱さ、悲しみをともに担ってくださる神です。まず被災地の皆さんの苦しみをそのまま受け止めることができますよう祈ります。
今回の大震災にあたり、世界中の人々からお見舞いと励ましの言葉が寄せられ、義捐金が届けられています。やはり人類はみなひとつ、互いにつながっているのだ、という思いを強くしました。
いま世界中の人々の目が日本に注がれています。日本は復興する、と言う励ましもいただきます。復興するとはどんなことをいうのでしょうか?ただもとの状態に戻すという復旧では足りません。深い反省に基づいた新生、新しく生まれること、社会と生活の刷新でなければならないと思います。
地震は天災であります。人間の力を超えた災害です。天災の被害を如何に防ぎ少なくするかは、わたしたち人間の問題です。津波に伴い、原子力発電の事故が起こり、放射能汚染への恐怖と不安がわたしたちを覆っています。事故は明らかに人災であります。わたしたちはこの機会に生活の刷新、価値観の変換をしなければならないと思います。快適で便利な生活を追い求めてきた戦後のわたしたちの生き方を根底から反省し、質素な生活、家族と家庭を大切にする本来の生活に立ち戻り、さらに日々神の言葉に生かされる信仰生活を樹立しなければならないのです。人とのつながりを大切にする質素な生活と祈りの日々をめざしませんか。
わたしは東日本大震災に出会い、使徒パウロの言葉を思い出しました。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。』(ローマ9・18-24)
天災はどうして起こるのでしょうか?天災とは何でしょうか?この大地震はパウロが言う、『うめき、生みの苦しみ』であるのでしょうか?
今日の第二朗読では次のように言われています。
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」(黙1・8)
主が再臨されるとき、すべての被造物は解放され、この世界はまったく新たにされ、『新しい天と新しい地』に変えられるとわたしたちは信じます。わたしたちはこの希望によって救われているのです。
いま仙台教区より司祭の派遣を求められております。司祭評議会で相談し、司祭の派遣を決定しました。
またボランティアの派遣も必要です。真生会館、信徒宣教者会と協力してボランティアを受付、派遣するためのセンターを設置いたします。
皆様のご理解とご協力をお願いします。
なお今日は教皇様の就任6周年もともに祝いたいと思います。教皇ベネディクト16世は6年前の4月19日、教皇に選出されました。教皇様のご指導に心から感謝し、ご健康とご活躍をお祈りいたしましょう。