教区の歴史
使徒ヨハネ粕谷甲一神父葬儀ミサ説教
2011年02月14日
2011年2月14日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
第一朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ14・7-9,10c-11)
福音朗読 ルカによる福音(ルカ24・13-35)
粕谷甲一神父様の葬儀ミサの聖書朗読はローマ書から取られました。パウロは言っています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」
粕谷神父様は主キリストのために生き、主キリストのために病苦をささげられ、2011年2月9日、主のもとへと旅立たれました。
今日の福音はエマオへ向かう弟子たちに、復活したイエスが現れた次第を告げています。わたしたちは主キリストの復活の証人となるために信者になり、また司祭の任務を受けました。
今日は粕谷神父様の生涯を偲びながら、神父様の司祭としての生涯をかけた働きを思い起こし、神様に感謝をささげたいと思います。
わたくしは学生時代に始めて粕谷神父様にお会いしました。当時神父様は全国のカトリック学生連盟の指導司祭であり、いくつもの大学のカトリック研究会の指導司祭でもありました。「無名の信者」「含蓄的信仰」ということをしきりに説いておられました。カトリック信者が非常に少ない日本における宣教、そして信者でない人の救い、という重大な課題にわたしたちの目を開いてくださったと思います。
学生連盟指導司祭のお仕事の後、海外で、青年海外協力体での長い奉仕活動が始まりました。わたしが神学生だったときに、神父様は神学院へ来られ、神学生たちに、自分が教区の外に出て青年海外協力体に勤務することになった次第を話されました。ご自分の使命を、教会の外でキリストを証し伝えることにある、と思うようになった心境を説明され、当時の土井大司教様の諒解をいただいた、と言われた、と思います。
神父様はそれ以来、かなり長い年月、海外で過ごされ、帰国後も難民支援の仕事を続けられました。
時はめぐり、わたしは神父様の上司である大司教になってしまいました。
2008年初夏のころだったと思いますが、神父様から電話があり、夜中に起きたときに転倒された、ということでした。当時神父様は中目黒の女子修道院の敷地にある家に住んで、シスターたちのためにミサをささげながら講演、授業、NPO法人の仕事などをしておられたと思います。
ほどなく神父様は「司祭の家」へ越してこられました。何度もわたしの執務室へ来られて、自分が司祭として働けなくなったことへのお詫びの気持ちを表明されました。
神父様の生涯を振り返ってみると神父様の司祭としての働きは主として教区の外にありました。しかし自分が司教の下にいる教区司祭である、という意識を強くもっておられたと思います。
神父様を神様のもとへ見送るに際し、わたしは神父様がマザー・テレサを尊敬していたことをあらためて思い出します。また蟻の町の教会を担当したときに知ったエリザベット・マリア北原怜子さんの生き方についても話されました。
今ここに「召命について」という文書があります。おそらく粕谷神父様が残された最後の文書かもしれません。(「せきぐち」への寄稿)
神父様がスイスの村バールの教会で司祭叙階を受けられときの心境を書いています。荘厳な聖歌が捧げられる中、神父様は一人小声で日本語の聖歌「身もたまも 主にささげ みこころに 委ねまつらなん・・・」と歌っておられたそうです。
そして
「聖歌の合唱と私のひそやかな独唱は調和して響き、それは私の何十年の今に至る司祭生活の光であり、力である。」
と書かれました。
粕谷神父様はあくまでもカトリック司祭の召命を守りながら、同時に、いわば教会の外で、神の愛を証しする使命に生きました。
カトリック信者が少数者である日本の社会で、どのようにしてイエス・キリストの愛を表し伝えていくのか、ということが、神父様がわたしたちに残された大きな宿題だと思います。