教区の歴史
小金井教会主任司任命式-年間第32主日-
2010年11月07日
2010年11月7日 小金井教会にて
第一朗読 マカバイ記(二マカバイ7・1-2,9-14)
第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ2・16-3・5)
福音朗読 ルカによる福音(20・27-38)
本日は小金井教会の司牧責任者の交代に当たり、任命する責任者として一言ご挨拶するために皆さんの教会、小金井教会を訪問しております。挨拶はミサの開祭で申し上げましたのですぐに、早速本日の聖書・福音についてわたくしの思いを申し上げたいと思います。
第1朗読はマカバイ記です。律法で禁じられている豚肉を食べるよう強制された7人の兄弟は皆、律法に背くことを拒否し、残酷な拷問に屈せずに、次々と殉教しました。4番目に息子は言いました。
「たとえ人の手で,死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。」
マカバイ記は2008年11月24日の列福式の第1朗読でありました。7人兄弟の母親は強い信仰にゆえに称賛されています。
「わずか1日のうちに7人の息子が惨殺されるのを直視しながら、主に対する希望のゆえに、喜んでこれに耐えたのである」(二マカバイ7・20)とあり、また彼女は息子たちに次のように言いました。
「人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命を再びお前たちに与えてくださる。」(二マカバイ7・22・23)
このように旧約聖書の第二正典であるマカバイ記のなかに既に復活の信仰が述べられています。
2008年に列福された殉教者が持っていたのも復活の信仰であります。福者ペトロ岐部と187殉教者の取次ぎを願い、その列聖を求める祈りのなかでわたしたちは祈ります。
「いつくしみ深い父よ、福者ペトロ岐部と187殉教者は、復活のいのちを約束してくださるあなたの愛に希望を置き、自らキリストの十字架を担い、その死を身に帯びる生き方を選びました。」
福者ヨハネ原主水の信仰を振り返ってみましょう。ヨハネ原主水の生き方はまさにこの祈りの言葉を思い起こさせる生涯でした。
1623年12月4日、原主水は江戸の札の辻で火あぶりの刑を受けて殉教しました。その際、彼が述べた信仰告白の言葉が残っています。
「私はわたしの贖い主であり、また救い主であらせられるイエズス・キリスト様の御為に、苦しみを受けて、いま命を捨てるのである。イエズス・キリスト様は、私には永遠の報酬におわすであろう。」(レオン・パジェス「日本切支丹宗門史」中巻294ページ)
これはまさに永遠の命と復活を信じる信仰告白ではないでしょうか。
復活を信じない現実主義者のサドカイ派はイエスに7人の夫をもった女の話をして、復活信仰が如何に馬鹿げているかを例示し、復活を信じる人々を笑いものにしようとしました。それに対するイエスの答えは相手を黙らせるに足る見事な答えでした。サドカイ派の人が重んじているモーセ5書の出エジプト記によって反駁したからです。
モーセは「主を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼びました。「アブラハム、イサク、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。だから、アブラハム、イサク、ヤコブが生きていないはずはない、ということです。
パウロはコリントの教会への手紙二の中で、死者の復活と復活の体について語ります。復活の体は「朽ちないものに復活し」「輝かしいものに復活し」「力強いものに復活し」た体です。それは霊の体であり、天の属する人の体です。死なないものとされた体です。
イエスの復活はイエスが悪に対して悪をもって対抗せず、非暴力の善によって悪を克服したことを示しています。イエスは自分を迫害するもののために父に祈りました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです。」(ルカ23・34)
イエスによって示された神の愛は赦す愛でした。赦す愛の勝利が復活であります。
わたしたちに「神の愛とキリストの忍耐を深く悟らせていただき」(二テサロニケ3・5)復活の勝利に与る者となることができますよう、聖霊の導きと助けを祈りましょう。