教区の歴史
東金教会創立50周年記念ミサ
2010年03月14日
2010年3月14日、四旬節第4主日
東金教会の皆さん、献堂50周年、おめでとうございます。
今日の福音はルカの15章の「放蕩息子」のたとえです。話の内容は今読まれたとおりです。
ある人に息子が二人いました。弟の方はまだお父さんが生きているのに、自分の相続財産の分け前を要求し、受け取るとそれを金に換えて、遠い国に行って、したい放題のわがままな生活をし、財産を使い果たしてしまいました。ちょうどそのときその地方に飢饉が起こり。息子は飢え死にしそうになりました。このときになってはじめて彼は自分の家と父のことを思い出し、帰ればなんとかなるだろと思ってか、家にたどり着きます。父は家の門で彼を見つけ、走りより彼を大歓迎します。たちまち歓迎の大宴会が始まります。そこに野良で働いていた兄が帰ってきて、この騒ぎは何かと驚き、わけを聞いて腹を立て、家に入ろうとはしない。父が出てきて兄をなだめます。その後どうなったのでしょうか?書いてないのでわかりません。
この話、有名です。わたしたちは何度も読みました。何度読んでも正直に言って、この話しには、分かりにくいところ、納得できない部分がありはしませんか?腑に落ちない部分がありませんか?
わたしは、それはこのお父さんの弟に対する態度だと思います。
息子に甘いのではないでしょうか?兄が怒るものもっともではないですか?父は、このようなわがままな息子にはもっと厳しくしなければならないのではないですか?甘やかしては他の人にしめしがつきません。せめて兄や他の使用人に相談して、弟をどうしたらいいのか一緒に考えて決めるべきでは?すぐに宴会を開くのはよくないのではないですか?
仏教の法華経に「長者窮子の喩え」(ちょうじゃぐうじ)という、よく似た話があります。仏の慈悲を説いた有名な説話。孫引きですが次のような話です。
同じく父を捨てて遠国に出た無知流浪の子のことです。父は息子を探し求めても見出せず、ある年に邸を構え、富貴な生活を送っていました。息子は父の家とは知らず、その邸宅で食を求めました。父はその男が自分の息子であることを知ります。しかし親子の名乗りはせず、その人にお便所の掃除などをさせ、卑しい業をさせながら性根をたたき直します。修行がすんで、自分の息子に相応しい人間に更正させてから彼を自分の跡継ぎを認めて関係者に紹介した、というのです。
どちらかというと、わたしは仏教の話しのほうが納得が行きます。ルカ15章の放蕩息子はしっくり行かないのです。そのように甘い態度をとっては家庭も団体も治められないのです。まじめにやっているものは怒るでしょう。本人のためにもならない、と思います。
でもこういう発想は管理者の考え方かも知れません。
ルカ15章には3つのたとえ、「見失った羊」のたとえ。「なくした銀貨」のたとえ。そしてこの「放蕩息子」のたとえが出ています。
わたしたちは、このような管理的?考え方はイエスの教えにあっていない、と知っています。しかし「父はおかしい」と感じる自分の心を見つめることが大切だと思います。「イエスの教えには合っていないだろうから」という理由で、この自分の心に封印をしたら自分の信仰の問題の解決にはならないでしょう。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしている」と非難しました。そこで彼らに向かってこのたとえ話をしたのです。怒って家に入ろうとしなかった兄は、ファリサイ派の人々や律法学者たちを指していると考えられます。そしてこの寛大な父は、天の父を指していると思われます。
神とはどんなお方でしょうか?人間にはそれを知ることが困難です。多分、イエスの言いたかったことはこういうことではないでしょうか?
「あなたがたは神を誤解している。神はあなたがたが考えているような方ではない。この父のようなお方のだ。」
この神理解の転換には困難が伴います。実に旧約聖書に出てくる神は怒りの神であります。イスラエルが神との約束を破り,他の神を拝むたびに、もうあきれるほどの激しい怒り、憤りを発する神であります。イスラエルの神は「ねたみの神」と言われました。(現在の新共同訳では「熱情の神」となっています。)神は激しく怒り、イスラエルを滅ぼしつくそうとするが、モーセになだめられて思いとどまる、という場面がでてきます。民は神の怒りをなだめるためになだめの犠牲をささげることになっていました。そのような激しい怒りの神ですが、同時にあわれみの神でもあります。イスラエルの民は、次第に、神はゆるしとあわれみの神であるというメッセージを受け取るようになりました。ホセアの預言では次のように言っています。
「ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。・・・・
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。」(ホセアの預言11・8-9)
神様なのに自分に言い聞かせて「自分は神であって人間ではないのだから」というのは変だとも思われますが、人間なら当然怒りに任せて滅ぼしてしまうが、神はそうはしない。神は救う神です。
あたかも神の怒りが神の赦しと戦っているようです。怒りは神の義の現れです。次第に怒りよりもゆるしの愛が勝るようになります。
ルカ15章のたとえは、一人ひとりの人間の掛け替えのなさを述べています。どんな人でもそのいのちは掛け替えがない。すべての人は神の子です。誰でも人は掛け替えのない存在として神に受け入れられます。
この「放蕩息子」の話は、自分を誰の立場に置くかによって読み方が変わってきます。わたしは誰でしょうか?兄ですか?弟ですか?あるいは父ですか?
自分が弟である場合、この話しは本当に福音になります。
実は父である神も、わたしたちの「割り切れなさ」「腑に落ちない点」を持っていたかもしれません。それは神の正しさはどうなるのでしょうか、という問題です。
神はイエス・キリストの十字架によってこの問題を自ら引き受けたのではないでしょうか?パウロは次のように言っています。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5・21)
教皇ベネディクト16世の回勅『神は愛』で神の赦す愛と十字架の関係を教えています。
「割り切れない気持」を大切にしながら、神の愛と十字架の神秘をより深く信じることが出来るよう祈りましょう。