教区の歴史

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キリスト教一致祈祷週間東京集会説教

2010年01月24日

2010年1月24日 目白聖公会にて

 

2010年の教会一致祈祷週間東京集会で説教を担当するようにとお招きをいただきました。本日の集会のために選ばれた聖書の箇所はルカによる福音の24章全体です。ここではエマオへ向かう弟子二人に復活したイエスが現れた次第が告げられています。

わたしたちキリスト教会の成立はこの弟子たちの体験に基づいています。わたしたちの間には教団・教派の違いがあります。しかしわたしたちは皆、このエマオの弟子の体験を共通の出発点としております。

エマオへ向かう弟子たちにイエスが現れました。しかし弟子たちは、その人がイエスであるとはわかりませんでした。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(16節)とあり、また「二人は暗い顔をして」(17節)いた、とも書かれています。二人、どんな気持で歩いていたのでしょうか?挫折感、失望、不安、恐怖、・・・ひどく落ち込んだ状態であったに違いありません。

24章はこの弟子たちが復活したイエスを認めるに至った次第を語ります。

イエスは二人と一緒に歩きながら、道々二人に聖書を説明されました。次第に二人の心は「燃えて」(32節)きたのです。ここでいう聖書は旧約聖書のことです。27節では「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあり、また44節では「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する」とあります。イエスはご自分の死と復活を説明するために旧約聖書を使われたのです。この点に注目したいと思います。新約聖書は旧約聖書の背景のもとに意味が明らかにされるのです。実に「旧約聖書はすべて、新約において、その充全な意味を見出し、またそれを示し、また旧約は新約を照らし、説明している」(第2ヴァチカン公会議『神の啓示に関する教会憲章』16番より)のです。

二人の弟子とイエスはともに泊まるためにある家に入り食事をともにされます。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31-32)とあります。実に印象的な場面です。弟子たちはパンを裂くイエスを見て、決定的に、復活したイエスを認めるに至りました。この場面は、パンを裂く式、イエス・キリストの最後の晩餐の記念(ギリシャ語で「アナムネーシス」といいますが)の式を想起させます。この記念は単なる追憶ではありません。弟子たちが復活という出来事から受けた喜びと光をいまここで再現し、証しし、宣べ伝えることであると思います。

イエスは弟子たちに言われました。

「あなたがたはこれらのことの証人となる」(48節)

イエス・キリストの復活の証人となることがすべてのキリスト者の使命であります。

わたくしはカトリック教会の司祭になるときにある決心をいたしました。それは、生涯をかけて復活の証人となる、ということでした。今越し方を振り返りますと、その決心の成果が乏しいことに、内心忸怩たる思いであります。今日この決心を新たにしたいと思います。

いつの時代も生きることには困難がともないます。特に現代人は生きる難しさを感じています。今の日本の社会に暗闇があります。また人の心の中にも暗闇があります。人々は迷い、惑い、悩み、苦しみ、生きる意味を求めています。

わたしたちキリスト者は教団、教派の違いを超え、ともに、キリストの復活の光を掲げる者でありたい、人々の心の中へ復活の光を灯す者でありたい、と願っています。日々の小さなことの協力と積み重ねが大切です。復活の信仰を証ししながら人々に生きる希望を指し示す教会として共に歩んでまいりましょう。