教区の歴史

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イエスのカリタス修道女会誓願式説教

2009年12月08日

2009年12月8日 無原罪の聖母の祭日
イエスのカリタス修道女会本部にて

 

皆さん、今日、イエスのカリタス修道女会の姉妹たちの誓願式を迎え、一言申し上げたいと存じます。

昨年の11月24日、長崎に於きましてペトロ・カスイ岐部と187人の殉教者が福者にあげられました。それから一周年を迎えた、去る11月25日に、殉教者の聖遺物を奉納するために、教皇ベネディクト16世の一般謁見のおり、私が日本の教会を代表して遺物の顕示台を奉納いたしました。ペトロ岐部はイエズス会の司祭でありましたのでゆかりのある教会、修道院などを訪問いたしました。そして、ローマのジェズ教会(GESU)に詣でまして、ミサを捧げ、それから「聖フランシスコ・ザビエルの右腕」を拝観いたしました。同行の誰かが「この右腕で400年前に私たち日本人に洗礼を授けてくれたんですね」と言うので、ああ、そういうことになりますね、と感心いたしました。今までも、この偉大な聖人を崇敬する想いをずっと抱いておりましたが、この機会にザビエルという方が、大変、私たちに近い存在として感じられました。

日本の文化では、偉い人の遺骸を飾って、それを拝観するということはあまりありませんが、カトリック教会では聖人の遺物を大切にする、教会に陳列する、来た人にお見せするということをやっているわけであります。

先日12月3日にはザビエルの祝日を祝いましたが、日本に福音が伝えられてから、460年になるわけです。1549年、聖フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えました。このことは日本人の誰もが歴史の時間に習っています。そしてこの460年の間の半分以上は禁教・迫害の時代でありました。ザビエルが日本に滞在したのは2年とちょっとの間だった、と最近わかりました。2年余り、大変な辛苦・困難を体験されました。言葉もわからない、風土が違う、気候が違う。大変に難しい困った状況があったと思われますが、特に山口で宣教して多くの日本人の信者をつくり、そこに本当に教会の交わりを見出し、彼は深い霊的な慰めと喜びを感じたということであります。他方、命の危険さえ感じる色々な困難な日々による疲労困憊状態により、二年後には頭髪が真っ白になったということが書いてありました。間もなく日本を離れ、そして1552年12月3日、中国の広東近くの上川島(サンシャン島)で亡くなられました。このザビエルの生涯を想い、そして日本の宣教、日本の福音化を私たちは改めて想い、考え、祈る時であると思います。

460年経ち、これからの日本の福音化をどう進めていくことができるであろうか。ローマ巡礼から帰って間もなく、今度はアジアの司教会議で、タイのバンコクに参りました。そこでアジアの色々な国から来た司教様たちと会いましたが、日本はこれだけ一生懸命に宣教し、お祈りしているけれども、本当に宣教が難しい国だな、と感じました。アジアにはヒンドゥー教、イスラム教、もちろん仏教とか世界規模の宗教が存在し、大きな力を持っております。しかしそれらの国でも、インド、パキスタンやインドネシアでも、カトリック教会は日本の教会よりも遥かに大きいですね。日本はご存知のように非常に小さい、マイナーな教会です。在籍信者は40数万人、それに外国から来てくださっている方々を入れても、100万人。信者の比率は人口の1パーセントに遠く及ばない、そういう国。でも、ここには大変優れた立派な宣教師が来てくださったのでありますし、今もそうであります。

今回、聖フランシスコ・ザビエルの言われたことを少し調べてみました。「日本人は大変優れた民族である」と褒めています。日本で宣教するためには、このような人でなければなりません。体力のある人、学問のある人、持久力のある人、そういう人が必要だけれど、一番必要なことは謙遜の徳、謙遜な人でなければいけません。神に希望を置き、深い信仰をもって、この日本の風土でイエス・キリストを証しする、これは大変なことであって、自分の力に頼らず、自分の弱さを認め、神さまに信頼して忍耐強く神のみことばを宣べ伝えることのできる、そういう人を送って下さいという手紙を本部のイグナツィオ・ロヨラに出しているそうであります。実際、色々な修道会、宣教会から日本に多くの宣教師を送って頂いたわけであり、今もそうであります。それでも日本の宣教は難しいと言わなければならない、どうしてなのだろうか、と。

400年前には迫害がありましたね。迫害があって、信仰がかえって燃え上がったかもしれない、今は迫害はありません、ありませんが、或いは公権力、政府、権力者による迫害はないが、別な力、私たちの信仰を阻む別の悪の力が働いているのかもしれないと、このごろ思うのであります。日本の社会は今、閉塞的な行き詰まり状況にあり、精神的にも行き詰まっている人が少なくはないですね。生きる意欲を失っている、失いそうになっている人が多い、どうしてなのでしょうか。

今日、イエスのカリタス修道女会の誓願式にあたり、そして無原罪の聖母の日を迎え、今日の聖書、そして福音を黙想しながらもう一度、私たちは聖母の信仰に倣うことを、本当に日々心掛けなければならないと思います。聖霊によって身ごもり、男の子の母となるというお告げを受けた処女マリアは、どんなに戸惑ったことでありましょうか。“どうしてそういうことが有り得るのですか”と天使に尋ねました。神のお告げを受け入れるということは実に、命がけであります。私たちは洗礼を受け、堅信の秘蹟を受け、そしてシスターたちは誓願を立てる、そういうときに、今の日本の社会で信仰を証しし、或いは修道誓願を立てるというのはどういうことだろうか、と。今の日本の社会の中で、この社会を支配している精神とは異なる、或いは対立する精神、生き方を命をかけて生き抜いていく、そういう誓願を立てるわけであります。もちろん、司祭、司教も同じことであります。現代の人々に本当に神の存在を告げ知らせ、そして一人ひとりの人が神さまからかけがえの無い尊い命を受けていること、一人ひとりの人が、それぞれ神さまの呼びかけに応えて生きていくべきだということを、本当に告げ知らせることが出来ますように。そのためにザビエルが私たちに教えている、「日本において一番大切なことは謙遜の徳だ」ということ。ザビエルは日本において非常に多くの危険にさらされ、そして自分自身の中に、さまざまな誘惑があることに直面し、本当に謙遜に自分の心を見つめたそうであります。私たち自身の中にある様々な問題を神さまに打ち明け、そして清めていただけますようにお祈りしたいと思います。