教区の歴史

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港品川宣教協力体合同堅信式ミサ説教

2009年10月18日

2009年10月18日 目黒教会にて

 

今日はこれから堅信式が行われます。堅信の秘蹟は、洗礼を受けた方がさらに聖霊の賜物を受け、力強く信仰を証しすることが出来るように、恵みを授ける秘蹟です。昔から七つの賜物を授けると言われております。今日行なう堅信式の中で司教が唱える祈りの言葉、その中に七つの賜物が述べられます。「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。」こういう言葉で聖霊の七つの賜物が表現され、与えられる、そういう式です。 

今日の福音ですが、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とイエスが言われました。これは、イエスの十字架のことを指しています。自分の命を献げると言われました。十字架におかかりになることを指しております。そして、それは、多くの人の身代金――身代金という言葉が、おやっ、という感じを与えるかもしれません。今でも、誘拐という犯罪があって、犯人から「いくら、どこに持って来れば釈放してあげる」などという通知があったりしますね。そのとき命を助けるために払うお金が身代金です。イエスがその身代金であるという考えはちょっとわかりにくい感じがあるかもしれませんが、旧約以来の伝統の中から出て来た考えです。 

使徒パウロはイエスの十字架の真理を深く悟り、そしてその教えを生涯宣べ伝えた方、自身も命を捧げて殉教した方です。このパウロはイエスの十字架をどういう風に言っていたのかと申しますと、ローマの教会への手紙で次のように言っています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ローマ3・25)罪を償う供え物、旧約時代、大祭司が神様に犠牲を献げて罪の赦しと償いを祈った、その旧約時代の伝統を受けて、今度は御子イエス・キリスト自身が、すべての人の罪の償いのためにご自身をお捧げになった、という教えであります。

今日の第一の朗読、イザヤ書でも言われています。「わたしの僕は、多くの人を正しい者とするために彼らの罪を自ら負った。」この主の僕は、新約聖書の光から見て、イエス・キリストを予め指し示していると、私たちは考えます。私たちの罪を負って、罪のために十字架におかかりになったのであります。

また、今日の第二朗読、ヘブライ人への手紙の中では、「恵みの座」という言葉が出てきます。これも私たちには馴染みが薄い言葉ですが、もしかして旧約時代に罪を償うために捧げた、そのいけにえを捧げる場所を示しているのかもしれないと思われます。 

イエス・キリストは、私たちと同じ本当の人間でありましたから、人間としての姿が目に見える形で私たちは知ることが出来るわけです。もちろん、2000年経ってしまいましたので、肉眼で、すぐそばで拝見は出来ませんが、福音書が伝えておりますし、いろいろな具体的な場面がありますね。十字架の上でお亡くなりになったときも詳しく福音書が伝えているわけです。

そのイエス・キリストの御父、父と子と聖霊の御父は姿が見えません。天の御父は全知全能、完全な方ですから、人間がどうしても避けられないいろいろな苦しみ、悩み、病気、障がい、そういうものとは縁が無いと考えますね。しかし、旧約聖書から新約聖書を読んでみますと、非常に人間的な神様の感情が出てまいります。憤る、怒る、しかし後悔する―神様が後悔したという言葉も出てきます。文字通り受け取らなくても良いのですが、神様はわたしたち人間を御造りになりました。判断し、決断出来るものとして造りました。そうしたら間違いを犯す、罪を犯す・・・。しかし、罪を犯すからといって人間を全部罰して滅ぼしてはしまわれません。何とか救いたい、赦す。この赦す神様の愛は神様自身の中に痛みを起こさせるものではないかと考える人もいます。罪人を愛することは忍耐し、痛みをしのぶことであると。 

人生は本当に苦しみの連続であり、私たちは苦しみから、悲しみから、逃れることは出来ません。その悲しみ、苦しみをイエスが私たちと共に背負ってくださいました。そしてそのイエスの悲しみ、苦しみは天の御父のものでもあると言っても良いのではないでしょうか。仏教では四苦八苦という教えがありますが、本当に生きることは大変であります。 

今日堅信を受けられる皆さん、この神様の深い愛を今日さらに深く良く知り、信じ、そして復活されたイエス・キリストの光、イエス・キリストからいただく力によって、今の日本の社会に日々力強く希望を持って生きるしるしとなっていただきたい。この荒野のような日本の社会で、オアシスのような存在となって証しをしていただきたいと思います。