教区の歴史
イエズス会司祭叙階式説教
2009年09月21日
2009年9月21日 麹町教会にて
叙階:アントニウス・フィルマンシャー神父
朗読箇所
聖書朗読 コリントの信徒への手紙二12章7-10節
福音朗読 ヨハネによる福音19章31-37節
今日の叙階式のために選ばれた聖書朗読は、いま読まれましたように、コリントの信徒への第二の手紙12章であります。パウロはここで自分の体に与えられたとげについて話しております。このとげはかなりつらいことだったようであります。パウロは三度も「どうか、それを取り除いてください」と主に願いましたが、叶えられませんでした。このとげというのは何であったのでしょうか。学者がいろいろ研究をして、いろいろな意見を出しております。もしかして、パウロがこうむっていた肉体上の疾患による苦痛――頭が痛いとか、目が痛いとか――そういう苦痛を指していたのかもしれません。ともかくそれは非常につらいこと、あるいはもしかして、屈辱的なことであったかもしれません。パウロは非常に苦しみました。「パウロ年」は終わりましたが、使徒パウロは大変勇敢で、たくましい、熱心な人であったと私たちは想像します。どんな困難があってもめげない、不屈の闘士ではなかったでしょうか。
しかし、このパウロにも弱さがあった、弱さを持った人でありました。コリントの信徒への手紙の中にもそのことが言及されております。「手紙は重みがあり、力強くあるが、会ってみれば、体つきは貧弱で、話も取るに足りない」。これは聖書の中に書いてある言葉で、私が言うわけではありません。そういうパウロでありました。パウロの言葉の中に「土の器」という言葉がありますね。「土の器」。私たちは「土の器」というこの弱い人間性に神様の尊い使命を、任務を授かるのであります。これはすべてのキリスト者、とくにこの司祭は、いまアントニウスさんが受けようとしているこの司祭の職は、人間という非常に尊いが、しかしもろい、弱い器の中に盛られる神様の恵みであり、神様から、イエズス様からいただく任務であります。その人間が、死に打ち勝ち、復活されたイエス・キリストの司祭の任務につくのであります。パウロは、ご存知のように、立派な最期を遂げ、殉教いたしました。おそらくこのとげを生涯担い続けたものと思われます。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主はパウロに言われました。
さて、いまアントニウス・フィルマンシャーさんは皆様の前で司祭の任務を受けようとしておられます。大変明朗でお元気で健康な方とお見受けいたしますが、人間としての弱さ、課題がないわけではないと思います。誰でも生涯自分の問題、自分の課題と付き合っていかなければならない。使徒パウロに倣って、アントニウスさんも司祭の務めを立派に果たしていただきたいと思います。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というこのパウロの言葉をアントニウスさんは自ら選んで今日の朗読とされたと聞きました。深く心に刻んでください。インドネシアから日本に来てくださいました。そしていま日本で司祭の職を受けられます。多くの方があなたの働きを待っており、期待しております。現代の荒れ野とでも言うべき今の日本の社会の中で、多くの人は疲れております。あるいは病んでおります。憩い、安らぎ、勇気、希望を求めております。どうか、多くの人に生きる希望、勇気を指し示す、イエス・キリストの復活の光を表し伝える司祭として歩んでいってください。
「パウロの年」は終わりましたが、いまは司祭の年、「司祭年」を過ごしております。6月19日に始まりました。この日は聖心の祭日であります。今日の福音は聖心の祭日の日に朗読される箇所であります。懐かしい箇所と言ったらいけないでしょうか。聖心の信心は非常に盛んになり、多くの聖人が聖心の信心を広めました。とくに、聖マルガリタ・マリー・アラコックという方が有名であります。この聖人に現れたイエスは、人々の忘恩、不敬、冒涜、冷淡、無関心を嘆いて訴えられたとのことであります。これは17世紀の後半のフランスでのことでありました。兵士の槍で刺し貫かれたイエスの聖心は、罪びとである私たち人間、また弱さを持つ私たち人間を包み、癒し、許すイエスの愛を表しております。私たちを許し、贖う神の愛を表しております。神は御子イエス・キリストを私たちに遣わされ、私たちを罪と悪から解放するために御子が十字架に掛けられることを厭われませんでした。いまの私たちは、このイエスの槍で刺し貫かれた聖心の前でどのような思いを抱いているでしょうか。このイエスの苦しみに対して、私たちはどのように答えているでありましょうか。
私はいまどういう時代かということを考えますに、命が軽んじられている、粗末にされている、ということを思います。言うまでもなく、まず命が失われる最も恐ろしいことは戦争ということであります。人類は愚かにも、お互いに殺しあうために膨大な費用を費やしております。さらにそればかりでなく、多くの人は人生に疲れ、やむをえず自ら、生きる意欲を失い、死を選ばざるを得ない、死に追いやられてしまう、そういう状況もあるのではないでしょうか。生きるということは本当に大変なことであります。本当に元気に生きていきたいと思うが、生きる力がなえてしまう、萎えさせてしまう、そういう状況がありはしないか、とも思うのであります。十字架の上ですべての人の贖いとなられたイエスはいまこの日本の現状を見、どのようにお考えでいらっしゃるでしょうか。私たちは自分の都合、生活、あるいは欲望の方を優先し、隣人の必要、隣人の困難、あるいは孤独ということに関心を寄せていない、目をふさいでいるのかもしれない。イエスはそのような私たちの心のあり方を憤り、あるいは悲しんでおられるのではないか、という気がいたします。使徒パウロの熱意と謙遜さをもって、主イエスの燃えるような愛をすべての人に伝えるよう、私たちも日々務めて生きたいと思います。