教区の歴史
カルメル修道会上野毛修道院・カトリック上野毛教会聖堂献堂50周年記念ミサ説教
2009年07月12日
2009年7月12日 上野毛教会にて
今日は、この聖堂が献堂されて50年をお祝いするおめでたい日です。
いま読み上げられたヨハネの福音の中で、主イエスは次のように言われました。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
50周年を迎えたわたしたちが、この2009年の東京においてこのイエスの言葉をどのように受け止め、どのように実践したらよいだろうかと考えながら、日頃思っていることをお話ししたいと思います。
このヨハネの4章は有名な話です。サマリアの女性が、イエスと出会いそして回心し、救いを体験しました。この女性はサマリア人の中でも、もしかして肩身の狭い思いをしていたのかも知れません。昼ごろ水を汲みに来るということは、あまりないことだったそうです。5人の夫を持っていた。また、いま一緒に住んでいる男は夫ではないということが出てきます。こういうことから想像するに、彼女はこのサマリアの社会の中で、周りの人とあまり好い関係ではなかったの ではという気がします。あまり幸せとはいえない人生、そういう印象です。サマリア人は「善いサマリア人」のたとえなどで知られています。有名なダビデ王が紀元前一千年頃、統一王国を建設し、ダビデの次がソロモン、ソロモンの次の王のときに王国は南北に分裂します。北王国がイスラエル、南王国がユダです。そして北のイスラエルもやがてアッシリアという国に滅ぼされ、そこにアッシリアから他の民族が移住してきました。そのとき、その人たちの宗教とイスラエルの宗教が混ざり合ってしまったと言われています。それで、サマリアの宗教は正統な信仰ではないとみなされていました。ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く、ユダヤ人とサマリア人の間には、大きな壁、溝がありました。さらにサマリアの女性は「女性」であります。当時、女性と男性の間には大きな隔たりや壁がありました。これは、ユダヤ人でも同じだったようです。普通ユダヤ人の男性がサマリア人の女性に話しかけるということはありえません。そのありえないことが起こって、当初この女性は、真面目に聞いていなかったようですが、次第に真剣になり、ついにイエスをメシアと認めるようになりました。そのように話が展開しています。この出来事はサマリアの女性にとっては、ほんとうに重要なことでありました。彼女はイエスとの出会いによって救いを体験した人であります。
この話をいま改めて聞きながら、この2009年の東京、首都圏の地において、もう一度このサマリアの女の体験をして欲しいと願います。現代の悩める、迷う、苦しむ人々に同じような体験をして欲しいのです。
本当に生きるというのは大変なことです。いろいろなことがあります。その中で人は生きる意味を見失ったり、生きる力が萎えてしまったりします。
先週、都内のあるホテルで「プロテスタント宣教150周年記念晩餐会」が開かれ、私はカトリック代表として招待され、参りました。大変な人数の人が集まっていました。私は次のような挨拶をしました。
「皆さん、わたしたちキリスト教の信者は日本では人口のわずか1パーセントに過ぎません。その1%の人が、どこが違うだの、どこがおかしいなどと言っている場合ではないと思います。神様を礼拝し、同じイエス・キリストを救い主として仰いでおります。同じイエス・キリスト、同じ聖書です。ですから、力を合わせていきましょう。日本の人は、自死する人が多いです 。年間3万人もいます。この現実をどう見ますか?自分たちのことは置いておいて、そういう人のために何ができるか、できることからやっていきませんか。」
意外にも拍手をいただきました。私が思いますに、キリスト教会の中だけでなくカトリック教会の中だけでも、わたしたちは、いろいろな問題の処理に当たっています。教会の中の問題なのです。中で、ゴチャゴチャしているのです。本当に無駄なことだと思います。本当に情けなく思います。中でああでもないこうでもないと言ってお互い悩み苦しみ時間を使っている。でも、すぐ傍で、明日死のうかなと思っている人がたくさんいる。この現実をどう思うかということです。
今日の朗読、エゼキエルの預言、神殿のイメージが出てきます。この神殿の下を流れている水が海に入ると、すべての生き物が生き返る。そして人も植物も豊かに実を実らすというイメージです。この東京という、荒れ野のような所で、こういう神殿ができて、そこから流れる水に浸った人は、皆元気になり生きる喜びを味わう、そういうようになるのではないか、ならないだろうか。
またパウロのコリントの教会への手紙では、「あなたがたは、聖霊の神殿である」と言っています。私たちは、聖霊を受けて聖霊に住んでいただいている。そして多くの人に、この聖霊の存在を示し伝えていかなければならない。聖霊が住んでくださるのだから、それぞれ自分を大切にしなければならないと思います。そして聖霊が住んでいる尊い存在として、お互いに大切にし合わなければならないと考えています。
わたしたちはカトリック教会の教えは正しいし、素晴らしいと信じておりますが、わたしたちの教えは難しいですね。多くの人に、もっと分かり易く、受け入れ易く、提出できないかと思います。もっと日々の生活のレベルの中で具体的に助け合い、励まし合うことはできないかと思います。キリスト教は1%ですが、日本では大きな人数、力を持っている新しい宗教団体があります。ここでは、非常に実際的に、現実的に、日々の生活でお互いに支えあっています。これはまぎれもない事実です。カトリック信者というのは、そういう点では冷たい、あまり熱心ではないように思います。是非この辺から改めていかなければならないと思います。本当に多くの人が、疲れて、そして病んでおりますし、心の問題に悩んでいる 。そういう現実の中でわたしたちの教会が、砂漠の中のオアシスのようになって、人々に潤い、癒し、力を与えることができますように、上野毛教会の皆様にも是非この点をご配慮いただき、そして、多くの人々にイエス・キリストの復活の喜びを話し伝えていけますように、今日は是非お願いしたいと思います。