教区の歴史
四旬節第5主日ミサ説教
2009年03月28日
2009年3月28日 東京教区部落問題委員会拡大学習会終了後
浅草教会にて
先ほど終了しました東京教区部落問題委員会拡大学習会からわたくしは多くのことを学びました。この学習会の企画・準備・実行を担当された皆さんに感謝します。そして特に、お忙しい中、わたくしどものために講演と現地学習の指導をしてくださった講師の松浦利貞さん、高岩正興さん、そして聖公会の執事の友寄景方(ともよせかげまさ)さんに厚く御礼申し上げます。
復活祭まで2週間となりました。今日の典礼は四旬節第5主日で、福音は有名な一粒の麦の話です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ12・24)
これはどういう意味でしょうか。イエスはご自分の十字架の死と復活によってこの言葉の意味を明らかにしました。イエスの十字架による死は多くの人に永遠のいのちをもたらしました。このことを今日のヘブライ人への手紙が説明します。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブ5・7)
十字架に至るまでの従順と謙遜のゆえにイエスの願いは聞き届けられ、父は死からイエスを解放し、復活の栄光をお与えになりました。そしてこのイエスの贖いのゆえにすべての人はイエス・キリストをとおして救いに入ることができるのです。一粒の麦が地に落ちて死ぬとは父である神への信頼と従順を貫くこと、血を流してまでも従順を捧げることでした。父から見捨てられるほどの孤独を体験しても父への信頼を捧げ通すことでした。このイエスを信じることを通してわたしたちは主なる神を知ることができるのです。
「主を知る」ということはすでに旧約聖書でたびたび預言されておりました。今日の第一朗読はエレミヤの預言です。31章31節に、「新しい契約」という言葉が出てきます。ミサの奉献文で毎回司祭が唱える御聖体の聖別の言葉であります。司祭は「新しい永遠の契約の血」と唱えますが、この「新しい契約」という言葉はこのエレミヤに出てくる言葉なのです。イスラエルの民はシナイの契約を守ることができませんでした。そこで主なる神は新しい契約を立て、新しい契約によってすべての人を救おうとされました。この契約は彼らの胸の中に授けられ、彼らの心に記されます。そうなると、もはや人々は互いに「主を知れ」と言って教える必要はないと主は言われます。この「主を知る」はイエス・キリストの死と復活、そして聖霊降臨のキリストの神秘により成就しました。イエス・キリストはまことにすべての人が救いへ至るための「道、真理、命」であります。
さて、わたしたちは今日、浅草に来て現地学習をしております。浅草は二人の殉教者、昨年11月24日に長崎で列福されたペトロ岐部とヨハネ原主水ゆかりの地であります。ペトロ岐部は1639年7月、伝馬町牢屋敷において拷問を受けて殉教しました。現在十思公園となっているところと言われています。原主水は浅草のハンセン病者のもとに身を寄せて、江戸の教会の中心的メンバーであったとされています(ハンセン病者との関わりについては不明な点が多いです)。訴人にあい彼は逮捕され1623年12月4日、江戸の札の辻で火刑に処せられました。二人ともイエス・キリストを救い主と信じ、その信仰を固く守り、棄教を拒み、そのためにいのちを捧げました。
現代の教会にとってこの二人の生き方はどんな意味があるでしょうか?差別と戦うわたしたちにとってどのような光、励ましになるでしょうか?
現代の教会の課題は、わたしたちがいかに差別されている人々の側に立って差別と戦うかです。また、現代の荒れ野において生きる希望を失いがちな人々へ、イエスの死と復活を説き、キリストこそ救い主、わたしたちの命の証しであるということを、いかに説き伝えるかであると思います。
差別と孤独からの解放。これがわたしたちの大きな課題です。
差別は不条理です。イエスはこの不条理を身に受けて死にました。わたしたちもこのイエスに倣い、イエスを知ることにより、不条理の中で、明日への光と希望を指し示していかなければならないと思います。部落差別との闘いはこのイエスの戦いへの参加にほかならないからです。