教区の歴史

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聖職者の集い(テ・デウム)説教

2008年12月26日

2008年12月26日 東京カテドラル聖マリア大聖堂で

 

本日は恒例の、年末12月26日、「聖職者の集い」(テ・デウムの集い)の日であります。この一年神様から賜った数々の恵みに心から感謝いたしましょう。

私はまた、この機会をお借りして神父様、信者の皆様のお祈り、ご指導、ご支援に心から御礼申し上げます。 

この2008年はまことに恵み深い年でありました。11月24日、長崎にて待望のペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われました。188人の列福は本当に大きな恵みであります。殉教者の生き方に倣い、取次ぎを願いながら、これからの日本の福音宣教・福音化のために、力を合わせて歩んでまいりたいと存じます。

この188人の殉教者は、現代の社会とわたしたち教会に向かって、メッセージを発信しています。そのメッセージとは何でしょうか? 

私は今日とくに3つのことを申し上げたい。

第一のことは4人の殉教者の司祭の証しです。ジュリアン中浦、ディエゴ結城了雪、トマス金鍔次兵衛、ペトロ岐部カスイの4人の司祭はよい牧者として司祭の務めを忠実に果たし、最後には羊のために命を捧げました。

今のわたしたち司教、司祭はどのように自分の務めをはたしているでしょうか?羊を養うのではなく自分自身を養っている牧者である、ということはないだろうか?弱い者を強め、病める者を癒し、傷ついている者を包むという牧者の務めを忠実に果たしているだろうか?逆に弱い羊を悩ませ苦しめ脅かす、などのことをしていないだろうか?真摯に反省しなければなりません。エゼキエル書34章をよく味わいたいものです。 

第二の証しは、女性の殉教者の証しであります。188人の中に女性は60人おられます。60人の中でとくに私は小笠原みやという方に非常に強い印象を受けています。

小笠原みやは小笠原玄也の妻、そして9人の子どもの母でした。さらに4人の奉公人がおりました。この小笠原家15人が1636年1月30日、熊本で殉教しました。

ここに信仰・希望・愛で結ばれた15人の家族の固い結束が見られます。今の家庭はどうでしょうか?家族の絆はどうなっているでしょうか?

この一家の殉教には、母であり妻である小笠原みやの存在が最も大きな役割を果たしたことは、想像に難くありません。殉教の状況が切迫しているとき、9人の子どもを生み育てました。しかも、立派に自分の信仰を子どもたちに伝えました。今の時代では考えにくいことです。今の家庭、家族関係は本当に難しい状況にあります。社会の再建と刷新はまず男と女、夫と妻、親と子、兄弟姉妹のかかわり方の刷新と再建から始まらなければならないと言わなければなりません。 

第三の点は殉教者が永遠の命を固く信じていたということです。

殉教者は変わることのない永遠の世界、永遠の命、永遠の価値の存在を信じていました。厳しい現実のなかで変わることのない神の愛を信じ、神への信仰を第一において、それをすべての中心に置き、この世のいかなる動きにも揺るぐことのない信仰を貫いて生涯を全うしました。

現代は相対主義の時代であり、人々は永遠に変わらぬ価値についての感覚に乏しく、常に変転するこの世界のかなで、不安にさいなまれ、非常に不安定な状態に置かれています。年間3万人が自死を遂げています。人間同士の暖かいつながりが乏しく、人は砂漠の中で飢え渇き、孤立し、孤独に苦しんでいます。 

アメリカの金融危機に始まった激しい経済不況の嵐が現在、わたしたちを直撃しています。とくに、外国人派遣労働者、非正規雇用労働者、派遣社員など大きな不安に怯えています。

人間が人間らしく生きることを拒むこのような非人間的状況は誰が造り出したものでしょうか?それは人間が自分で造りだした世界ではないでしょうか?そのような社会の現実に対して、わたしたち自身に責任があるのではないでしょうか?神でないものを神にしてしまった人類の罪の結果ではないでしょうか?「この世の神」(二コリ4・4)を神にしている人々ではなかったでしょうか? 

殉教者たちはイエス・キリストによって「現れた永遠の命」(一ヨハ1・2)を固く信じていました。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(一ヨハ2・15-17)

この使徒ヨハネのことばを深く心に刻みたいと思います。

皆さん、よい年をお迎えください。