教区の歴史
八王子教会でのミサ後の挨拶
2008年12月14日
2008年12月14日 八王子教会で
今日の答唱詩編は「マグニフィカート」(マリアの歌)から採られています。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言われた聖母にならい、信仰の従順のうちに、神の愛を人々の前に証しできますよう、ともに祈りたいと思います。
2008年も残すところわずかとなりました。日本のカトリック教会にとってこの年は大きな恵みの年でありました。ペトロ岐部と187殉教者の列福式が長崎で行なわれました。多くの方が参加し、大きな感動と喜びをいただきました。
白柳誠一枢機卿様がミサの主司式と説教をなさいました。キリスト教とか殉教とかをまったく知らない人が聞いてもわかるような、平明でよく整った話をしてくださり、一同、感動いたしました。
白柳枢機卿様は殉教の意味、日本の教会の歴史、188人の殉教者の紹介、そして「これらの殉教者は現在のわたしたちに何を伝えたいのか、彼らの列福にはどんなメッセージがあるのか」ということを話されました。
聖パウロのローマの教会への手紙を引用しながら、殉教者が神の愛を力強く証ししたこと、400年前の家族の間の固い結び、そして信徒の間の絆、また地域の人々との交わりについて話されました。
そして「殉教者は、年間3万人以上の自殺者のいる今日の日本の社会に呼びかけています。人生の意味について、苦しみの意味について、語りかけています。」と述べられました。「すべての人が大切にされ、尊敬され、人間らしく生きられる世界となるよう祈り、活動することを求めているに違いありません」とも言われました。
寒い中、4時間にもわたる式でしたが、参加者一同大きな感動を味わいました。私は最初、安堵の気持というか、ほっとしたという気持ちでしたが、いろいろな方からの式参加の感想を聞き、後からしみじみ、本当によかったな、と実感してきています。
今回の列福実現にはいくつかの重要な意義があります。
第一に日本のカトリック教会主導により実現であるということです。
第二に、188人全員が日本人であり、183人が信徒であるということです。したがって第三に、現在の日本の教会を励まし、信徒の働きを支え強めるため、という意図を持っているということです。
400年たった現代はどんな時代でしょうか。
ある人は現代の特色を、「存在の乏しさ」という概念で説明しています。自分がここにいる理由、自分がここにいてもいい理由に確信が持てない。言い換えると、自分がここにいることを肯定できない人がすごく増えているということです(2008年9月19日、毎日新聞掲載、鷲田清一氏の言葉より)。
自分の存在の意味が分からない、どこから来てどこへ行くのか頼りない。他者とのつながりが薄いだけでなく、自分の存在の根源が疑問であり、曖昧であるということです。家庭内暴力、自殺、性的虐待などの暴力が横行しています。かえって400年前より暴力的な時代かもしれません。また働いても人間らしい生活を送ることが極めて困難な状況に置かれています。
人間の存在が薄くされている時代です。人間の尊厳、一人ひとりの存在の重さ、かけがえのなさこそ、わたしたちが神の前に証しすべき大切な課題ではないでしょうか。
「わたしたちの教会がすべての人に開かれた共同体、とくに弱い立場におかれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、やすらぎ、なぐさめ、はげまし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします。」
これは私の大司教着座式のときの言葉です。
この思いを込めて東京教区では三つの優先課題を掲げています。それは、
1)信徒の養成、2)外国籍信徒の司牧と生活のサポート、3)心のケア
です。
信徒はもちろん司教・司祭が深く反省し、より忠実に自らの使命を果たすよう心がけなければなりません。
列福された殉教者の取り次ぎを願いながら、わたしたち東京教区の神の民がこの課題によりよく答えることができますよう、聖霊の導きを願って祈りましょう。