教区の歴史
港・品川宣教協力体合同堅信式説教
2008年10月26日
2008年10月26日 年間第30主日 麻布教会にて
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
今日、年間第30主日の福音のイエスの言葉です。律法の専門家から「数多い律法の中で最も大切な掟は何ですか」と聞かれてイエスはこのように答えました。
全身全霊全力で主なる神を愛しなさい。主を愛するとは主のみ旨を行なうこと、主のみ旨とは隣人を大切にする、ということです。
これは旧約聖書に見られる教えでありました。隣人を自分のように愛しなさいという教えは第一朗読の出エジプト記の中で、具体的に述べられています。寄留の民、寡婦、孤児を圧迫しないで大切にしなさい、ということです。
パウロはテサロニケの信徒に向かって、生けるまことの神に仕えるようになった、とキリスト者の証しを述べています。
2008年11月24日、ペトロ岐部と187殉教者の列福式が長崎で行なわれます。殉教者とは神の愛の証人であり、信仰告白と愛の実行をとおして証人となった人です。
港品川宣教協力体は、11月16日の日曜日、『江戸の殉教者をたたえる感謝の祭儀in札の辻』を殉教跡地である札の辻で開催します。
1623年12月4日、江戸の札の辻でヨハネ原主水と他の49人が火刑に処せられ、殉教し、神の愛の証人となりました。
原主水はどのように、神の愛を証ししたのでしょうか。
原主水は1587年、今の佐倉市(千葉県)にある臼井城で生まれ、1600年大阪でモレホン神父から洗礼を受けました。将軍徳川家康の「走り衆の頭」(将軍警護役の隊長)となり、得意満面、出世のエリート・コースを歩んでいました。しかし、1615年逮捕され、両手の指を切り落とされ、額に焼印を押され、腿の筋を切られて、追放され、全てを失いました。多分そのときから彼の信仰の証しが始まりました。その後、彼はハンセン病者と共に生き、江戸の教会の中心人物となりました。かつての部下に訴えられて捕らえられ、火あぶりの刑を受けます。そのとき群集に向かって叫んだ原主水の言葉が残っています。
「わたしは異教徒の誤謬(ごびゅう)を憎んできた。この理由で長年前から火あぶりになる今日まで追放でも何でも甘受して参った。私が極端な責め苦にも耐えてきたのは唯一救済に導いてくれるキリシタン宗の真理を証拠だてんがためである。私の指は全部切り取られ足の腱も切られ而(しか)も初めから私の行きつく所を知った。私のこの切られた手足が何よりの証拠である。私は贖い主であり、また救い主であらせられるイエズス・キリスト様の御為に苦しみを受けていま命を捨てるのである。イエズス・キリスト様は私には永遠の報酬に在すであろう。」
原主水は地位、身分、愛する友、愛する女性、身体の自由を失い、恥辱と苦悩の中に投げ込まれました。かつ癩病と呼ばれ、隔離され忌み嫌われていたハンセン病者と共に過ごしました。得意の絶頂から失意のどん底に落されたのです。この体験が彼の信仰を深くさせました。彼は十字架のイエスと出会い、イエスの愛を知り、イエスと離れることのできない人となりました。「イエス・キリストは贖い主、救い主」という信仰を告白して殉教したのです。殉教する原主水は今のわたしたちに大きな存在感を与えます。
ところで、400年たった現代はどんな時代でしょうか。
ある人が次のように言っています。
「単に経済的な豊かさ、貧しさから論じるのではなくて、この社会に潜む『ふさぎ』のようなものを、もう少し大きなところから論じるべきではないかと思うんです。『それは存在の乏しさ』という概念です。自分がここにいる理由、自分がここにいてもいい理由に確信が持てない。言い換えると、自分がここにいることを肯定できない人がすごく増えているのではないかと思うんです。」
(2008年9月19日、毎日新聞掲載、鷲田清一氏の言葉)。
自分の存在の意味が分からない、どこから来てどこへ行くのか頼りない。他者とのつながりが薄いだけでなく、自分の存在の根源が疑問であり、曖昧である。年間3万人以上が自死を遂げる時代です。
パウロは言います。
「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」
一人ひとりの存在の意味と尊厳を自覚することが人生の目的です。今、迫害や禁教はありませんが、もっと難しい状況があるような気がします。自分で自分を肯定できなくさせている目に見えない悪の力が存在しています。「わたしたちを悪からお救いください」との主の祈りと共に、日々、神の愛に応えて愛の証しを立てることができますように、祈りましょう。