教区の歴史
こどものミサ説教
2008年10月12日
2008年10月12日 14時半 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
第一朗読 ローマの信徒への手紙 8・14-17
福音朗読 マルコによる福音 14・32-36
いま読まれたマルコの福音はゲッセマネというところで苦しまれたイエスの姿を伝えています。イエスはゲッセマネの園で「ひどく恐れてもだえ始め」られた、とあります。これから自分の上に降りかかる恐ろしい出来事、十字架につけられるという残酷な処刑などを思えば、人間であるイエスにとって恐れおののくのは当然であります。
ところでさらにイエスは言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」これは、「非常に悲しい、深く悲しむ」という意味であります。「苦しい、恐ろしい」ということは分かりますが、「悲しい」とはなぜでしょうか、どういう意味でしょうか、何が悲しかったのでしょうか?私なら悲しむ余裕などないと思います。もう恐怖で心は一杯、悲しんではおられません。イエスは何を悲しんだのでしょうか?
あなたならどんなときに悲しみを覚えますか?人はどういうときに悲しむのでしょうか?
愛する人が亡くなったときに悲しみます。愛する人と仲たがいしたときも悲しいですね。
イエスもラザロがなくなったときに悲しみに涙されました。愛する人と別れなければならないとき悲しいです。愛する人が苦しんでいるのも悲しいです。
旧約聖書のホセアの預言のなかに不思議なことばがあります。
「ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
(ホセアの預言11・8-9)
まことに不思議なことばです。
繰り返し裏切り背くイスラエルの民に神は激しく怒ります。しかし同時に激しい痛みを覚えます。この痛みは激しい悲しみです。愛しているから悲しく、心が痛むのです。
ゲッセマネでイエスが深く悲しんだ悲しみはこの神様の悲しみ、痛みではないでしょうか。それはわたしたち人間を愛するから悲しむ悲しみです。人間を惜しむ深い思いです。闇の中で光を求めて迷っているわたしたち、罪の重荷に苦しむわたしたちを深く憐れむときの痛み、悲しみではないでしょうか。ペトロは三度もイエス(自分)を知らないと言いました。イエスはそのペトロのために悲しみました。しかしこのわたしたちのためにも悲しんでくださいました。イエスは悲しみによってわたしたちを救ってくださいます。
きょうヨハネ原主水の生涯をわたしたちは学びました。原主水の生涯には失敗も過ちもあったことでしょう。しかし主イエスがゲッセマネの園で、苦しみにもだえながら深い悲しみのうちにご自分のすべてを父である神にささげました。「アッバ、父よ、・・・わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りました。
原主水は、イエスが十字架をとおしてわたしたちを罪から救ってくださったことを知り、信じました。愛である神が自分を贖い、救い、永遠の幸福へ招いてくださることを信じました。聖パウロが言うように「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と信じ、その信仰を人々の前に宣言したのです。
原主水に倣い、わたしたちも愛である神を力強く証しすることができますよう、ペトロ岐部と187殉教者の取り次ぎによって祈りましょう。