教区の歴史
講演 NICE-1、NICE-2
2008年08月22日
日本カテキスタ会2008年度 信仰養成講座
「教皇パウロ6世使徒的勧告EVANGELII NUNTIANDIに学ぶ」より
第二講話 NICE-1・NICE-2
2008年8月22日午後4時 ニコラ・バレにて
はじめに
岡田でございます。東京教区の司教として、皆さんが、ここにお集まりになって、大切な福音宣教ということについて、研修してくださることを大変有難くうれしく存じます。
神学校で先生をされていた髙見大司教様、日本カトリック福音宣教研究所で私の前任者であられた佐々木神父様がいらっしゃるので、ちょっと話しにくいのですが、NICEについて話すということです。しかしEVANGELII- NUNTIANDIについては、明日、佐々木神父様が詳しくお話になられます。それはパウロ六世の教え「使徒的勧告」という文章ですがNICEとはこの教えを前提として、日本の教会が歴史上大変画期的というべきでしょう、宣教のために開催した全国会議であります。ですから、順番としては、「使徒的勧告」のお話をお聞きになってからのほうが大変よろしいかと思います。皆さんのお手元にあらかじめお願いしたプリントがあると思います。それを見ながら交互に私の話に耳を傾けていただければ幸いでございます。(28ページにレジュメがあります)
福音宣教か・福音化か
第二バチカン公会議(1962-1965)が終り、その10年後の75年にパウロ六世教皇(在世1963-1978)は、この「使徒的勧告」を発布されました。それを日本の教会ではいち早く「教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』」というように訳しました。しかしこの訳し方には、論議が起こりました。むしろ「福音化」というべきではないだろうかと、皆さまがお持ちのペトロ文庫にその辺の事情が書いてあると思います。
ラテン語でEVANGELIZATIO、英語で言うとEvangelization、この言葉をどう訳すかなんですね。宣教とかあるいは福音宣教と従来言っておりましたが、この宣べ教えるの「教える」ということに少しひっかかりがある。抵抗があるのです。教会では教えるという言葉が多いですね。教会の教え、司教の教え、教えを司るのが司教、これはたぶん中国の翻訳からきたからでしょうか、つまびらかには存じませんが、1990年にヨハネ・パウロ2世教皇の、レデンプトーリス・ミッシオ、Redemptoris missio「救い主の使命」という回勅が出ました。こちらの方も教会の使命である宣教について述べておりますが、イエス・キリストを宣言するという点に力を入れたものであります。エヴァンジェリィ・ヌンチアンディEVANGELII NUNTIANDIの方は、教えを宣べ伝え、洗礼を施し、キリストの弟子を作るだけでなく、それはもちろんだが、社会を担う人たちとともに、その社会の文化をより福音的なものに変えていくことこそ、教会の使命である。「福音化」=現代世界における福音化、というのが、この「使徒的勧告」の正確で忠実な翻訳の表題と言えましょう。その大きな背景には、1974年に開催されたシノドス=世界代表司教会議(世界の司教たちの代表による会議)があります。司教全員を集めるのは難しいので、各国から代表の司教を集め、教皇さまが諮問なさった「これこれについて、どう思うか」ということを議論し、その結論を教皇さまに報告すると、だいたい1年後にお答えが出ます。それが「使徒的勧告」という形で発表されて、ずっと続いています。
新しい流れ―日本の教会の歩み
1974年の時点、ずいぶん昔になりましたが、もう30年になりますか。ちょうど、「解放の神学」ということが言われていて、単に教えを宣べ伝えるだけでなく、この世界を、この社会を神の国の到来のしるしとして、新しくしていかなければならないという、社会を変革しようという論議があったわけです。その背景を色濃く写しているのがエヴァンジェリィ・ヌンチアンディでしょう。
NICEというのは、「National」のN、「Incentive」のI、「Convention」のC、「Evangelization」のE、これでNICEになって、ナイスな感じになりました。要するにNICEというのは、福音宣教推進全国会議の、英訳の頭文字を取って、NICEとしたんですね。
第二バチカン公会議が終わり、日本の教会は教会刷新に努めてきました。ヨハネ・パウロ二世教皇さまが、81年に日本においでになりました。これは大変な出来事でした。大きなインパクトがあったのですね。東京では後楽園でミサがありました。私はそのとき、千葉県の教会の主任司祭をしていて、信者さんと一緒に参加したんですけど、寒い日でした。教皇さまは広島・長崎にも行かれて「平和アピール」をなさいました。そうして教皇さまのお勧めもあって、平和旬間というものがつくられました。それから、今回の列福も長崎訪問の時のお言葉がきっかけと励ましになりました。
司教協議会―日本の教会の中央機構
83年に、教皇は非常に重要な公文書を発表しました。「日本の教会の中央機構に」という文章です。もう25年前ですね。4分の1世紀たちましたが、これをどのくらい詳しくお伝えしたらいいのか。カトリック教会というのは、基本構造として教区がありますね。世界中にいくつあるでしょうか。千か、千何百の教区によって構成されています。この教区を全て治められているのがローマの教皇 様、司教様方であります。教区にも小さな教区、大きな教区といろいろありますが、基本的に対等な存在です。教区の司教はそれぞれ原則として、教皇庁に直属し、そして司教の人事は教皇 様が決めます。
宣教地である日本においては、昔、布教聖省と呼ばれていた「福音宣教省」が司教の選任を担当し、教皇様に報告提案し、後はどうやって決まるかわかりませんが、選任の手続き等は日本の教皇庁大使と福音宣教省で準備し、 そして決まるのは枢機卿の会議かも知れませんが、最終的には教皇様がお決めになります。教区はそれぞれ並列して、同じ日本の教会にあるわけで、日本として同じ文化・伝統を持つ教会として、互いに協力して日本の宣教に当たりましょうということですね。
司教協議会というのは、われわれ司教の集まりのことですが、全体で16の司教区があり、東京・大阪・長崎と三つの管区があります。その管区の中心は大司教区で、その大司教区の司教がたまたま大司教と言われているに過ぎませんが、司教協議会があって、司教 様方が集まっていろいろ相談します。司教がいきなり集まっていきなり会議をするわけにいきませんので、会議の準備をしたり、記録をしたり連絡をしたり、その他通常の任務・事務をする機関が必要で、司教協議会の秘書局があるわけです。日本ではそれをカトリック中央協議会と呼びますが、その中央協議会で奉仕する職員が必要で、もちろん司祭も必要です。私も佐々木神父 様もそこで一時期働いていたわけです。ちょうどNICE-1の時、私はそこの職員として働いておりましたが、会議の準備とか進行とか整理とか、裏方の仕事をしました。その時に司教 様たちの中に森司教様がいらして、森司教様の影響が強かったと思います。
教会の使命である宣教、あるいは福音化、そのために各教区が協力して当たらなければならない。そのために協力するための機構が必要で、その機構を整備しましょうという話になりました。そういう中からNICE=福音宣教推進全国会議という構想がでてきたわけですね。この時の構想によると、常設する機関と考えられていました。(現実には2回開いてその後は開催されていませんが)。最初考えていたのは、一期3年で、3年に1回開催して、常任司教委員会がこれを主催する。開催中だけそのメンバーというわけではなく、3年間お願いしますということを考えたわけです。そのメンバーは司教全員と各教区から司祭一人ずつ等々であります。こういう構想は少しずつ変ってきました。翌年の1984年に、日本の教会の基本方針というものが 出されました。今日も続いている日本の教会の決定なんですね。
NICEは1と2で、もう終わったというわけではなかったのですが、このことにずいぶん議論して話し疲れてしまったわけです。ですからこの度こちらで、20年後にこの話をするとは思ってもいませんでした。
日本の教会の優先課題
優先課題には1と2があります。
1は、
「私たちカトリック教会は、宣教者としてまだキリストの食卓を囲んでいない人々に信仰のよろこびを伝え、より多くの人々を洗礼に導き、彼らと共に救いのみわざの協力者となり」、言い方は上品というか、もったいぶっていますが、要するに信者を増やそう。そう言ったら、身も蓋もないですが・・・。
2のほうは、社会と文化の福音化という言葉で言うことが出来ます。
「今日の日本の社会や、文化の中には、すでに福音的な芽生えがあるが、多くの人々を弱い立場に追いやり、抑圧、差別している現実もある。私たちカトリック教会の全員が、このような「小さな人々」と共に、キリストの力で、この芽生えを育て、すべての人を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる。」
これが現代世界における福音化です。エヴァンジェリィ・ヌンチアンディの教えをそのまま受けて、日本の社会と文化を変革しなければいけない。もちろん人間の力ではなく、聖霊の力によって、変えていかなければいけない。
1990年に先ほど申し上げましたが、『救い主の使命』という回勅が出ました。この中では、「やはりちゃんとイエス・キリストを宣べ伝えなければいけない。イエスご自身を宣べ伝えなければいけない」ということを言っています。これが『救い主の使命』です。アジアでの宣教について 、もしかしたら教皇庁が、憶測ですが、いろいろ懸念とか心配を持っていたから出てきた回勅かも知れません。
この1と2が基本方針ですね。この基本方針を実現するために、優先課題を持ってきました。レジュメの4の1).2).3).その中の3番目に優先課題として、福音宣教推進全国会議を開催するということが入っているのです。しかも、1987年に開催すると、その前年は常設機関として3年任期に任命して随時召集するという感じだったのですが、いろいろな議論があったのでしょう。私はそのときまだ中央協議会にいて、議論の場におりませんでしたが、NICE-1が87年11月開催されて、そのときは裏方で参加しました。
この第1回のNICEを行うに際して、どういう主旨でどういうふうに行おうかということを司教たちは話しあったわけです。86年12月に、『第一回全国福音宣教推進会議課題発表に際しての司教団メッセージ』が出ました。私はこれを非常に重要であると考えております。 日本の教会、司教たちは、何のためにこの会議をするのか、何について話しあうのか、全国のみなさんに聞いたわけですね。画期的なことではあるが、負担になり時間やエネルギーを消費することになったわけですけれど、「今の教会にとって何が問題ですか」「どう話しあったらいいでしょうか」と、非常に広くアンケートを取りました。教区、修道会、宣教会、いろいろな団体にも聞いて、膨大な資料が集められて、それを分析してどうしょうかと議論しました。その結論がメッセージとなったのです。みなさんにとって共通な問題が何なのかということですね。
表面化した「遊離」
それで、ありとあらゆる課題、ありとあらゆる問題がでてきました。でも、こういう分析をしたことはすごいですね。こう書いてあるんです。
「これらの課題、あるいは日本の教会の福音宣教のために無視できない重要なことばかりでした。私たちはこれらの根底にある問題を発見しました」。それで、「遊離」という言葉が出てきたのですね。遊離というのは曲者ですね。
それで、遊離とは何か、という議論をいたしました。この遊離について発表があって、それをまとめたものがあります。私が発表したのですが、遊離というのは信仰が生活から遊離している。それは、どういうことかというと、生活は生活、信仰は信仰。日曜日は教会に行ってミサに与かり、毎日せっせせっせと働いて、会社の収益を上げる。そういうようなことが信仰とは遊離していると考えたわけです。また実際には、そうしないとやっていけませんからね。仕事しながら、イエス 様の教えをどうのこうのと言っていると仕事にならない感じというような。でも、第二バチカン公会議では、まさに教会が人々から浮き上がっていて、人々のなぐさめになっていないのではないかと、もう一度見直そうとしたのです。開かれた教会へということが、狙いとしてあったわけです。
他方、教会とキリストは違うわけですが、限りなく教会はキリストに近づいて行かなければならない。この世のあり方に染まらず、この世のあり方に支配されず、毅然ときちんと生きる。私たちは人よりも神に従わなければなりません。だから、「遊離」してもいい、という考えもありうる。大体のことはこの世の習慣どおりにします。この世の権威者にしたがいます。しかし譲れないものがある。「遊離」の必要というわけです。
生活から信仰を見直す―開かれた教会づくりへと
祭政一致、教会と社会の権威とが一体化すると悪いことになります。教会の歴史をみると、教会とこの世の最高権威者と対立したり、争ったことがあったようですが、組織としての教会とこの世の権威が分離している。信仰の自由と政教の分離と私たちは理解しているわけですが、日本国憲法で私たちは強く不安を感じ 、訴えているわけです。日本の司教は再三それをしているわけです。髙見大司教様は、社会司牧委員会の長ですが、委員長としてそういうことを訴えているわけです。
「遊離」の問題ですが、全司教による1986年のメッセージのなかで、遊離を克服するにはどうするかということを訴えています。教会の教えは上から下に降りてきます。こうだからその通りに教えにしたがって生きなさいとなります。ところがむしろ逆のことを司教たちは言いました。「福音宣教を考えるにあたって、生活から信仰を見直していく方向、日本の社会の現実から福音宣教を考えていく方向を選びました」とメッセージで述べたのです。そして続けて、
「こうして私たちは第一回福音宣教全国会議の課題を『開かれた教会づくり』としました。どこか遠いところでつくられた信仰様式に生活をむりやり合わせる努力をするというのではなく、生活と日本社会を見つめながら、信仰の態度を改め、それを育て、あかししたいと願ったからです。」そして、こういうと誤解されそうだと感じ、一応ことわりを入れました。「それは決して現実に迎合したり、妥協することをめざすからではなく、生活の中でキリストの十字架と復活の神秘を真剣に生きることこそ、福音宣教の課題だからであります。」
現実から信仰のあり方を見ていくということですね。
キリストの生涯に倣って生きなければならない。イエス・キリストは2000年前、一人のユダヤ人として、ユダヤの文化・習慣にならって生きておられたけれども、その生き方そのものが、神の愛を具現化する生き方をされた。そのイエス ・キリストに、私たちは倣わなければならないのです。そして、日本の教会も日本の文化の中で、この時代の中に、イエス・キリストが今ここにいて、日本人として存在していたらどう生きるかということを、求めていかなければならないということです。これは大変すばらしいことです。
それで、全国大会の課題は「開かれた教会づくり」ということになりました。皆さま「ともに喜びをもって生きよう」という冊子をお持ちだと思いますが、これはこの会議が終わって司教団に提出された当時の司教団の答え、応答です。
1987年11月23日に納めて、12月18日に出ていますので、かなり短時間に司教団の応答が出たのです。当時の司教協議会の事務局スタッフが司教会議の審議を終えて出したもので大変な作業でありました。
司教たちに出された答申というのは、11頁から出ているもので、その答申に対する応答が審議結果に出ているものです。
教会の課題を大きく3つの柱に分けました。
柱Ⅰ「日本の社会とともに歩む教会」教会が社会に対してどうあるべきか。柱Ⅱ「生活を通してそだてられる信仰」信仰の養成、私たちは信仰を育てていかなければならない。信仰というのは、生活の中で生きる信仰である。現実から遊離して関係なくお祈りしたり、現実はどうであっても自分は信者として生きるのだ、というのではない。柱Ⅲ「福音宣教をする小教区」小教区が閉鎖的な司祭の組織になっているのではないか、扉を開いて福音宣教をしなければならない。福音宣教をする小教区。三つの柱を考えてそれぞれ議論していただいた結果、それぞれに提案があったということなのですね。提案をした最終日に参加者一同の宣言というのが出ました。
実は、私はこの宣言というのはとても良いものと思っており、私の司祭・司教としての任務遂行の時にいつもこれを自分の歩みの基本と考えて、機会があれば申し上げているわけです。2000年の9月3日に、ここ東京に大司教として就任したときも、宣言のことに触れたわけです。この「宣言」というのは、参加した人たち、参加者一同が、司教と全国に向って発表したものですが、その中の言葉を今朗読いたします。
「私たちは、この経験を踏み台として、新しい歩みを始めます。私たちはまず、これまで教会を支え、信仰を伝えるために努力してこられたすべての人たちに、心から感謝を表明いたします。ともすれば、内向きに閉ざされがちだった私たちの姿勢を真剣に反省し、神さまであるにもかかわらず、兄弟の一人となられたキリストに倣い、すべての人々に開かれ、すべての人々の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるよう努めたいと思います。」
このことばは、NICEの精神をとてもよく表わしていると思います。
「ともに喜びをもって生きよう」柱Ⅰの提案1なんですが、11頁に壮大な理想が述べられています。
「教会が生活と社会の現実とその諸問題を把握、分析し、そこに福音の光を与え、福音の光に基づいた問題解決の指針を教会と広く社会にも、伝達する機関を充実する」
まさにその通りです。そうすべきなんです。プロジェクト・チームがつくられて、担当は浜尾司教。そこに非常に優秀な協力者が集められました。本田哲郎神父様、不肖私も居たのですが、司祭、修道者、信徒、いろいろ人が集められました。とてつもなく壮大で、理想的な課題でした。いろいろやっているうちに、私は司教に任命されて、そのグループから離れることになりました。司教団が直接取り組むことだといわれて、つくられたものですが結果は中途半端におわりました。もうちょっと具体的なことに焦点をしぼって、取り組めばよかったのか、とも思っています。でも自分の通常の仕事をしながら、月に1回くらい時間をさいて集まってどうしようかと相談する、それはなかなか大変で、具体的なことはできませんでした。
ただし1つだけ具体的な取り組みができました。それは差別されている少数者、マイノリティのことを取り上げた冊子「ともにだれと・・・」(上・下)の編集と発行です。その人々のために何をするか、という課題です。被差別部落の人、外国からきて滞在している人とか、沖縄の人々のこととか、共に生きるとは誰となのか、好きな人と好きなことをして喜んでいるのは当たり前だけど、それは、福音の精神ではない、差別されている人々に耳を傾けて、その人々と共に歩きましょう、ということです。この冊子は自分で言うのもどうかと思いますが、良かったと思います。浦和教区ではこのメッセージに基づいた研修会を開き、そこからいろいろ新しいことをや りました。部落問題委員会もつくられました。
柱Ⅰの提案2は信徒、修道者、司祭、司教のための生涯養成の確立。
提案3はカトリック学校の現状と課題の再検討。
提案4は社会的に弱い立場に置かれている人々の必要にこたえる態勢、いろいろの相談窓口を充実させよう。
その次の特別提案は、離婚者、再婚者に対して。結婚もうまくいくとは限らないわけで、日本の法律上、離婚・再婚することがある。その場合教会の教義と合わなくなってくる。教会法上、神学上、いろいろ検討して対応しようということで、司教団はずいぶん努力しました。その成果は各教区の司祭に伝えられたわけです。
柱Ⅲの「福音宣教をする小教区」についてですけれども、提案1「社会(地域)に仕える教会となるため、教会の姿勢を、内向きから、社会に参加し、奉仕する姿勢に変える」。小教区というのは、一定の区域を区切って、そこに住居する信徒を特定の教会共同体とし、いっしょに働き、その中で助けあったり、お祈りしたりする、という考え方なんですけれども、近年それには無理が生じています。特に都会がそうです。住居と生活と、仕事が分離しているので、ここに住んでいる人はこの教会でなくてはならないという原則は無理なんですね。特に東京教区ではそうです。それどころか、教区制も難しいですね。私は両教区(さいたま・東京)の責任者だったのでわかるのですが、あなたの教区は浦和教区なのに、なぜ東京に来るのか、という事も起きる。人々の生活のニードに合わせて考えると、制度のために人間がいるわけではなく、制度は人々のためにあるので、人間に対応していかなければならないのです。
教会内の協力態勢の確立を
典礼のことも提案されている。女性の教会の参加もかなり進んできたのではないかと思います。教会内の協力態勢は永遠の課題ですが、司教・司祭・修道者・信徒、奉献生活者がそれぞれの役割、立場を尊重しながら協力していく生き方、これがパウロの言う、キリストの体(1コリント12・12~26)のあるべき姿です。体全体いろいろの部分で成り立っている。キリストの霊で一つに結ばれているけれども、現実にいろいろな課題があります。考えてみると、司教・司祭、いろいろな体の部分の必要を、お互いにどう理解して調和するか。マッチさせるか。同じキリストの体ですが、どう調停するか、こっちに良ければあっちに良くないということがあります。
最初に申しあげましたが、カトリック教会は教区という制度、そして小教区という制度をとっていますが、うまく人々のニードに応えているのかどうか。小教区をもう一度見直そう、教区も見直そう、日本のような小さな教会に、 16も教区が必要なんだろうかということです。
それでまず教区ですが、3つの教会管区があるわけです。東京管区は、6つの教区があり、北から言うと、札幌・仙台・新潟・さいたま・東京・横浜教区。大阪管区は名古屋、京都、大阪、広島、高松。長崎管区は福岡、長崎、鹿児島、大分 、那覇と、それぞれ5つずつの教区から成立っているのですが、このそれぞれが教区という体裁を整えているのに無理があります。ほとんどが小さな教区ですからね。生活も交通もずいぶん変わってきたし、こんなに小さく分けていく必要があるのだろうか、もっと一緒にしたらいいんじゃないかということで、検討しましょうということになっています。島本大司教 様と森司教様、お二人が担当司教となり、何年かかけて検討されまして、それで、三つの選択肢が司教団に提案されたんですね。①全国を3つの教区に整備する。管区を教区にする。5、6の教区を一つにする。②管区の中の教区間の交流協力を推進することによって、徐々に教区間の隔たりを取り去るようにする。③今の16教区のままがんばっていく。これは、だれが考えても良さそうなのは②番目で、とても①の3つの教区になんかできない。かといって今のままでは難しい。もっと協力しましょう。そういうことでNICEは管区という存在の意識を強める効果はかなりあったのです。
管区の中で東京管区が一番進んでないようです。自分で言うのも情けないですが・・・東京管区は毎年1回、東京教区管区会議を開いて、こないだも開いたばかりなんです。司教と司祭の代表が集まって、共通の問題について話し合っているのですが、なかなか、具体的な取り組みにならないですね。小教区のことでみな精一杯ですから。全体のことをやっている時間はなかなかないですね。でも、共通に出来る事をやろうというわけです。
小教区については、細かく分けすぎているということで、いろんな教区で共同(協働)宣教司牧といった試みがなされています。東京教区では、ゆるやかな協力体制である宣教協力体とい う23のグループに分けています。
信仰の喜びをともにいきる教会へと
司教団は「ともに喜びをもって生きよう」の文書を発表して2つのキーワード、「ともに」ということと、「喜び」ということを提案しました。「ともに」ということは誰と、何をともにするかということが課題ですけれども、「ともに」ということをみなさん一緒に考えていきましょう 。特に、弱い立場に置かれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい、ということを述べました。「喜び」というのは、相馬信夫司教さまがおっしゃったことです。「信仰の喜びを生きなければならない」「喜びを分かち合って」とおっしゃったんですね。それで「喜び」という言葉がここに入りました。
「ともに喜びをもって生きよう」のなかに
「信仰を、掟や教義を中心としたとらえ方から『生きること、しかも、ともに喜びをもって生きること』を中心としたとらえ方に転換したいと思います」という文書があります。
このことばは人によっては躓きになったようです。掟や教義はどうでもいいと聞こえたようですが、そうではないんですね。神の愛を信じる、神が私たちを、イエス・キリストにおいて、罪を赦し、贖ってくださったことを信じる。その信仰の喜びが出発なんだと言いたかったんです。
NICE‐2で家庭の現実から福音宣教のあり方を探る
NICE-1が、1987年に開かれて、予定では3年後にはNICE-2となるはずだったのですが、NICE-1で、このような壮大な提案がなされて、これを消化しなければいけない。そうこうしているうちに6年経過しまして、93年に第2回のNICEを開催したわけですが、この時に、第1回と第2回の継続性についての共通理解があったかのかという疑問があります。
第2回のテーマは「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る」となっていまして、第一回の主旨に合わせたものなのですが、必ずしも主旨が徹底しなかったようです。第1回は現実から出発し ようとしました。現実に福音の力はどう関わるか、一方的にすでに出来ている掟とか教義を人々の現実の中に押し付けるのではなく、イエス・キリストの福音はどのような意味を持つのか、どういうようにしたら光となるのか、力となるのか、ということです。人々の生きる現実は一番切実です。一番身近な現実は家庭で、家庭の現実の中で福音を生きるにはどうしたらいいのかと、それは第一回の主旨と連なるわけです。しかし、同じ言葉、スローガンでも、意図することが分かれてしまったかも知れません。「同床異夢」という言葉がありますが、徹底的に教えようと考えた人も いる。そうではなく、現実から人を癒し・励ますために、教会はどうあるべきかを考えるために開くということです。家庭での人と人のつながりが難しい。どうしたらこういう人たちを支えられるか、ということでした。第1回から6年たつと、中央協議会の担当者もすっかり変わってしまいました。私は浦和教区の司教で参加して、主催者としてではなく自分の意見を自由に言うようになって、「あなたは立場が違うと言うことが違う」と、叱られました。
ベネディクト16世が就任なさった時の説教が私の心に響いたんですが、「現代は荒野である」。まさに、東京とその周辺は荒野なんですね。荒野は生きる力を奪うところなんですね。教会は荒野の中のオアシス、生きる力とならなければならないんであって、そのために教会はどうあらねばならないか、という課題を取り上げたのです。ですからこの課題は相応しいことでした。
そこでNICE-1を受け継いで、断ち切らないように、喜び・悲しみを共有・共感するネットワークが必要ではないか。また、典礼を見直さなければならない。若い人のニードは、気持 ちはどうなのか、女性はどう感じているのか、という点に分かち合いをしなければならない。カトリックの聖職者は司教も司祭も男性なので、女性の意見があまり分かってないんです。分かろうとしなければならないです。それで、浦和教区では青年と女性に呼びかけて、これを読んでどう思うかと、青年たちと女性たちは盛り上がったんですが、私は東京に転任になってしまったんです。
NICE-2についての評価が一定しませんが、これは本当に教会にとって大切なことだったのですが、それを生かすのは難しかった。というのも家庭の問題は話しにくいのですね。「内輪の問題はほっといてちょうだい」という言葉になる。誰でも話すのは億劫です。だから、ねらいとして良かったけれど、どうすればいいかについて、もっと周到に準備し検討しなければいけなかったのでしょう。
2つのNICEをどのように生かしていくか
総意を結集して行った二つの全国会議が冊子にまとめられているのをぜひ次の世代に伝え生かしたい。二つのNICEはどうだったのか、司教たちは今どう思っているのか。それが大事 ですけれども、20年たちましたが、そのNICEに司教として参加した方は今は二人です。広島の三末司教様と札幌の地主司教様です。地主司教様は被選司教でまだ叙階されていませんでした。お二人以外の今の司教 様たちは、まだ司教ではなかったし、ある人は日本にいなかったとか、うわさを聞いた程度で覚えていなかった方もいらっしゃるのです。私は、深く関わった者として、後に続く司教 様たちに、NICEはどうだったのか、伝えていくのが最小限の私の責務であると考えて、何度も何度もお願いして、それで先日NICE-1から20周年という文章を司教様全員にご検討いただいたうえで、とりまとめることが出来たのであります。ふり返りの担当は三人の大司教で、教区はどうだったのか、お尋ねしたわけです。
第1はNICEが開かれた経緯、第2は、NICEの結果をどのように取り組まれたか。中央協議会はどうだったか。各修道会はどうだったかをお尋ねしたわけです。3番目は全国から回答していただきました。
さて、回答から浮かび上がってきたこととして、全体的にNICEは全国の教会、教区、修道会、学校、施設などにかなりの影響を与えたことが認められました。「聞き、吸い上げ、生かす」のスローガンのもと、司教、司祭、信徒、修道者を一堂に会して、これからの福音化について、率直で熱心な意見の交換を行うことができたのは画期的なことでした。だが多くのところでこの熱意は持続せず、やがて失速し、中途半端な結果に終わってしまったことは素直に反省しなければなりません。16教区の中での影響と成果にはかなりの隔たりとばらつきが見られました。NICEの方向性と精神、そして取り組みと展開の方法について、十分な理解と一致があったのか、問われています。
NICE-1・NICE-2の提案はそれぞれ意味のある大切な課題でした。しかし、それを実行に移すには、日本の教会は十分準備されておらず、あまりに多くの提案があったため、その取り組みに無理があったことも否めません。NICE-1とNICE-2の関係、整合性がよく理解されなかったのも、NICEを曖昧にした原因だと思われるという自己反省があります。評価はプラス・マイナス両方ありますが。
次は分かち合いということですね。これにはアレルギー反応を引き起こしたようです。無理やり言わされるという感じを与えていたようですが、今は少しずつ変わってきたような気が致します。各地で、聖書の分かち合いが頻繁に行われるようになってきています。また、外国籍信徒の増大がめざましく、信徒総数の50%を超えると思われ、韓国や、フィリピンなど、アジアの人々との連帯が進んできました。他方、以前にもまして、多くの人が心身の重荷に苦しみ、福音に飢え渇いています。現代の荒れ野とも言うべき、厳しい社会・家庭環境において人々が悩み、苦しんでいる今、わたしたちは「神であるにもかかわらず兄弟の一人となられたキリストにならい、全ての人に開かれて、全ての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるよう努めたい」との決意を新たにし、それを未来につなげていきたいと思います。という結論でありまして、今年はパウロ年、それから、殉教者列福の年でもありますので、この期間に日本の福音化ということに努力していきたいと、私たちの決意をお伝えしたわけです。
NICE-1は1987年、2は93年でしたが、これからどうなるか、今後こういうような規模の開催は難しいと思いますが、第二バチカン公会議、その後の使徒的勧告、EVANGELII NUNTIANDI、これらを受けての二つの福音宣教推進全国会議。これは、まさにこれからの日本の福音宣教を考えるために行われたのです。いろいろ無理なことや不十分な点が多々ありましたが、よいところをしっかり受け取って、宣教に生かしていきたいと願っています。
福音宣教の年表
1. 第二ヴァチカン公会議(1962-65)
2. 1975年の『福音宣教』と『福音化』
3. 1990年,Redemptoris Missio『救い主の使命』
4. 日本の教会の歩み
1)1981年、教皇訪日
2)1983年、日本の教会の中央機構
4)1984年、日本の教会の基本方針と優先課題
5)1986年12月 第1回福音宣教推進全国会議課題発表に際しても司団メッセージ
6)参加者一同の宣言
7)1987年12月、『ともに喜びをもって生きよう』の発表
8)1994年3月、『家庭と宣教』の発表
参照資料
NICE-1から20周年―パウロ年と列福式を迎えて―
NICE「振り返り」担当司教
岡田 武夫大司教
池長 潤大司教
高見 三明大司教
『ともに喜びをもって生きよう』(カトリック中央協議会)
『家庭と宣教』(カトリック中央協議会)
――――――――――――――――――――
参考資料
1.第二ヴァチカン公会議
2.1975年の『福音宣教』と『福音化』
3.1990年 Redemptoris Missio『救い主の使命』