教区の歴史
受難の主日説教
2008年03月16日
2008年3月16日 北町教会にて
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これはマタイ福音書が伝える十字架上のイエスのことばです。マタイ福音書は翻訳ではなく、実際にイエスの唇から発せられたことばを忠実に再現しようとしました。そして、「これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」と説明します。このことはイエスの十字架の傍にいた人々の心に強く刻みつけられたのでした。この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22の冒頭のことばにあたります。詩編22はダビデの作とされています。ダビデは激しい苦悩のなかで神の救いを求めて祈りました。
イエスはこの詩編のことばをどのような思いで唇に上らせたのでしょうか。イエスの苦しみは肉体の苦しみだけでなく精神的な苦しみでありました。イザヤの預言は「主の僕」の歌のなかで「顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と言っていますが、まさにこの預言はイエスにおいて成就しました。イエスは人々の嘲笑と侮辱にさらされます。弟子たちからは見捨てられ裏切られます。総督ピラトはイエスには罪がないことを知りながら群衆の脅迫に負け、自分の保身のためにイエスを群衆に引き渡し十字架に架けさせます。
イエスは自分が父である神から遣わされた神の子であり、父が自分のうちにおり、自分は父のうちにいると自覚し、そのように弟子たちに話していました。その父はいまイエスの苦しみをどうご覧になっているのでしょうか。イエスはいつも父のみ旨を求め、父のみ心を行ってきました。いま十字架上で父のみ心をどのように受け止めておられたのでしょうか。人間としてのイエスには、父への信頼が揺らいだことはなかったのでしょうか...。
詩編22.25に次のことばがあります。
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
これはまさにイエスの祈りであり、イエスの思いであったと思います。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリッピ2.6-7)僕、しかももっともさげすまれ、侮られた僕となられたのでした。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(同2・8)
このイエスの祈りを神は聞き入れ、高く挙げられました。ヘブライ人への手紙の中で次のように述べられています。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自身を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(5.7)
旧約聖書を読むと、神はしばしば、裏切りと忘恩を繰り返すイスラエルの民に激しい怒りを発します。旧約聖書の歴史は神の怒りの歴史です。他方、神は憐れみ深い神であり、人々をゆるし救う神です。ホセアの預言に不思議なことばが記されています。
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。...わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや、怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者}(ホセア11.8-9)。
神は自らの怒りを鎮め、民の罪をあがない救おうとされます。神の愛はゆるす愛です。罪を犯す人間をゆるすことは神の正義に逆らうことになりはしないだろうか?神の正義と神のゆるしを和解させなければなりません。この葛藤の中でイエス・キリストの十字架の神秘が現れます。(ベネディクト16世の回勅『神は愛』10項参照)
ここでわたしたちは、ヨハネ福音書が次のように教えていることを思い出します。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
キレネのシモンはイエスの十字架を背負いました。わたしたちも自分に与えられた十字架を進んで担い、イエスに従って歩むことができるよう、聖霊の助けを祈りましょう。