教区の歴史
東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂記念ミサ説教
2007年12月08日
2007年12月8日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
東京カテドラル聖マリア大聖堂は1964年12月8日、無原罪の聖母の日に献堂されました。本日は献堂43周年の記念日です。本年、皆様の祈りと献金のお陰で無事、外装の大改修を行うことができました。皆様に心から感謝申し上げます。
今日は無原罪の聖母マリアに捧げられたこの教会で、わたしたち東京教区の神の民が、教会の模範である聖母に倣い、その使命をよく果たすことができますよう、心を合わせて祈りを捧げたいと思います。まもなく2008年を迎えます。来年はカテドラル構内の在り方を内容面からも建物面からも、つまりいわばソフトの面からもハードの面からも見直しをし、構内の種々の働きと建物が全体としてより調和し統合された状態となって東京教区の使命の遂行に寄与できますよう検討し相談し、そして祈るよう努めたいと存じます。
さて、本日の第1朗読は創世記3章の堕罪の物語です。アダムとエバは主なる神から、食べてはいけないと言われた、園の中央に生えている木の実を食べてしまいます。この木とは何でしょうか?善悪の木とも命の木とも言われます。園の中央には2種類の木が生えていたのでしょうか?それとも一本の二つの面を言っているのでしょうか?すべての善悪を知ろうとすることは、神のようになろう、つまり神の領域に入ろうとすることです。すべてを知るということは神になることです。人間は神の写し、神の似姿、神の最もすばらしい作品です。しかし被造物であり、神にはなれません。アダムとエバは神から与えられた自由を乱用し、被造物の限界から神ご自身の領域に進入しようとしてしまったのです。それは被造物と神という関係を否定することであり、神との交わりを失うことであり、自らの命を否定することになります。
アダムとエバに対比される人がイエスとマリアです。今日のルカ福音はマリアの信仰と従順を語ります。マリアは天使ガブリエルのお告げに対して、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と反論しているようです。しかし最終的に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えます。知ろうとする気持を自制し、信仰により、神のみ心に自分自身をゆだねます。
人生には、「なぜ?」ということが多いのです。なぜ、こういうことがあるのか?わたしたちはそれを知りたい。不条理なことが多い人生であり世界です。不条理はわけが分からない、納得できないということですね。なぜか、と知りたくなり、善悪を知る木、命の木を食べたくなります。それがどうしていけないのかと自問自答したりします。
聖母の人生には不条理な場面が目立ちます。幼子イエスを腕に抱いたシメオンはマリアに言いました。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2.38)。マリアは十字架につけられたわが子イエスの十字架のもとに立たなければなりませんでした。これが原罪の汚れを免れたお方の生涯なのです。聖母の生涯は悲しみと苦しみで織り成されています。
この東京という大都市とその周辺には良いこと悪いこと、何でも集まっているような気がします。人々は不条理、暗闇、混乱、孤独のなかに置かれています。このような状態にある人々にとって、神の存在を信じることは容易ではありません。
わたしたち教会は人々に対し、神の存在、そして神の愛、神の光を伝えるしるしとならなければなりません。そのためにわたしたち自身、神への信仰、希望、信頼をより堅固なものにしていただく必要があります。わたしたちにも、蛇の誘惑に負けて、自らを神の立場におこうとするアダムとエバのようになってしまう危険が迫っています。「わたしは主のはしため」と答えた聖母に倣い、自分の領域は何だろう、自分の任務・使命は何でしょうかと、いつも謙遜に神に問い求めてまいりましょう。
今日はもう一言申し上げます。 来週の月曜日から土曜日まで日本の司教たちは皆、ローマに集まります。世界中のすべての司教は5年ごとに教皇庁を訪問し,聖ペトロ聖パウロのお墓参りをし、教皇様にお目にかかり、教皇庁の諸部門を訪問し、報告を行い、分かち合いのときを持つことになっています。司教たちの無事で実りある旅行と集いのために、また司教たちが忠実に、謙遜に自らの使命・任務を果たすことができますよう、皆様のお祈りをお願いいたします。