教区の歴史
目黒教会創立60周年記念ミサ説教
2007年12月02日
2007年12月2日待降節第1主日 目黒教会にて
今日は待降節第1主日ですが、目黒教会では本日が教会創立60周年記念の日であります。皆様とご一緒に記念ミサをお捧げいたします。
待降節第1主日の3つの聖書朗読箇所からわたくしはパウロの次のことばに注目したいと思います。
「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ローマ13.12)
パウロはエフェソの手紙では、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5.8)と言っています。光ということばは実に重要です。
ヨハネの福音の冒頭で次のように言われています。
「はじめに言があった...ことばのうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1.1-5)
また、次のような箇所もあります。
「...光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(12.35-36)光を信じ、光の子として歩みなさい、ということです。
今日の第1朗読ですでに旧約の預言者イザヤは同じことを言っています。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2.5)
イザヤはバビロン捕囚の頃の預言者です。紀元前6世紀のバビロン捕囚という深刻な体験によってイスラエルの信仰は浄化され、強められ、回心を体験し、メシア・救い主への信仰と希望を抱くようになったのです。
待降節は主キリストの降誕を迎える準備をするときですが、同時に主キリストの再臨を迎える準備のときでもあります。今日の福音のなかでイエスは、「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と言います。では「目を覚ましている」「用意している」とはどういうことでしょうか。そのことを聖書は「光の中を歩む」「光の子として歩む」「光の武具を身につける」ということばで言い表しています。
ニケア・コンスタンチノープル信条で言われているように、キリストは「光よりの光」です。第2バチカン公会議の『教会憲章』は、キリストは「諸国民の光」であり、教会はそのキリストから光を受けて世を照らすキリストのしるしと教えます。暗闇の中では、何がどうなっているのか分かりません。人は迷い、不安になり、間違った思い込み、誤った考えに陥ったまま、道を踏み外したままです(仏教でいう「無明」はこの状態をさすのでしょうか)。本当のことが分からない、自分の間違いにも気がつかない、自分が正しいと思っている…状態です。人はまずキリストの光を心に受け、真理であるキリストに出会わなければなりません。そうすればキリストと共に歩む人となり、真理の光で周りを照らすようになります。これがキリスト者の道です。
いまなおわたしたちの心には闇の部分があるのではないでしょうか。わたしたちはもっとキリストの光を必要としています。心にもっと光を受ければ自分の間違い、汚れに気がつくことでしょう。光の武具を身につけ、光の中を、光の子として歩むこと、これが本日わたしたちに向けられたメッセージです。待降節の間、みことばに耳を傾け、聖書をよく読み、よく祈り、節制し、愛の業に努めながら、このことばの意味を深めていきたいと切に願っています。