教区の歴史
司祭・助祭叙階式説教
2007年09月22日
2007年9月22日 麹町教会にて
受階者
司祭受階 使徒ヨハネ・ベネディクト 山中 大樹(イエズス会)
助祭叙階 ヨハネ・レオナルド 尹 相鎬(クラレチアン宣教修道会)
朗読箇所
第1朗読 エレミヤ1.4-10
第2朗読 テモテへの手紙一2.4-7
福音 ヨハネの福音20.10-23
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
本日の第2朗読、テモテへの手紙の中の教えです。神はすべての人が救われるよう願い、そのために教会を設立し教会を派遣しました。そして教会の設立・派遣は、使徒言行録とヨハネの福音書が告げるように、聖霊の派遣・聖霊降臨によって行われました。使徒ヨハネが告げています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』
御父は御子を派遣されました。そして今度は、御子が弟子たちを派遣されます。その際、御子イエスは使徒たちに聖霊をお与えになられたのです。教会は主イエスにより、派遣された神の民、そして聖霊を受けた人々の集いでありますので、教会は父と子と聖霊によって派遣された神の民であると言えます。わたしたち神の民は誰であれ、一人ひとり派遣された者であり、使命を受けた者です。そしてこの使命を、福音宣教あるいは福音化という言葉で言い表すことができます。
福音化の使命を遂行する教会の中には種々の役割があり、ある人を司祭に、助祭に、修道者になるよう呼び出されます。今日のお二人は司祭、助祭であると共に修道者の召し出しを受けました。召し出しには困難と試練が伴います。困難を経験した代表的な旧約の預言者がエレミヤです。エレミヤは母の胎内にいるときからすでに神により聖別され預言者とされました。主のことばが若者であるエレミヤの臨んだときに彼が感じたのは「恐れ」ということであります。彼は言います。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はエレミヤに言われます。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしはあなたと共にいて、必ず救い出す。」
神はそう言われましたが、彼の任務には大きな困難が待ち受けていたのです。人々から排斥され攻撃されて、彼の嘆きと苦悩は頂点に達し、次のように叫びました。
「呪われよ、わたしの生まれた日は。
母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。
呪われよ、父に良い知らせをもたらし、
あなたに男の子が生まれたと言って
大いに喜ばせた人は。 (20.14-15)
自分の誕生すら否定しなければならないとはなんと辛いことでしょう。エレミヤという人は実に、激情の人でした。預言者の務めを果たすということはいかに辛いことであるのか、ということを彼はここで率直に語っているのです。
しかし、この同じエレミヤが希望に満ちたメッセージ、つまり新しい契約の成就を預言しているのです。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31.31-33)。
聖霊を受けてわたしたちは自分の心の中に新しい契約の恵みに与る者となりました。わたしたちは新約の教会を歩み、お二人は新約の役務者である司祭、助祭に叙階されます。その任務の遂行は時として困難であり辛いものであり、司祭として務めを遂行するとき、修道者として歩むとき、孤独と無力を感じる時が来るかもしれません。しかし、父と子と聖霊の神は世の終わりまでいつもわたしたちと共にいてくださり、わたしたちを導き照らしてくださいます。弱い人間の中に神の力が働きます。使徒パウロに主は言われました。「わたしの恵みはあなたには十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(二コリント12.9)。
今日こんなに多くの皆様があなたがたのために祈ってくださいます。これからも必ず祈ってくださり、共にいてくださることでしょう。信仰、希望、愛の恵みに支えられ、堅固な決意をもって生涯を主にお捧げいたしましょう。