教区の歴史

教区の歴史

アンドレア斉藤蘶(さいとうたかし)神父 終生誓願式説教

2007年09月09日

2007年9月9日(年間第23主日)北海道北斗市・厳律シトー会にて

 

朗読箇所
箴言 2.1-9
コリントの信徒への手紙I 1.18-31
ルカによる福音 14.25-33

 

今日の福音でイエスは言われます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14.26-27) 

大変厳しいお言葉です。また他の箇所では「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9.23)とあります。「自分を憎み」、あるいは「自分を捨て」なければイエスの弟子にはなれないのです。それは自分のすべてをイエスにゆだねることです。命を預けることです。弟子たちはそのことをどう理解したのでしょうか。彼らがイエスの言葉の意味を理解するためにはイエスの受難と復活を体験するまで待たなければなりませんでした。 

わたしたちはイエスの弟子になろうと決心して信者になり、司祭になり、修道者になり、日々歩んでいる者です。どの道も厳しく、だれにとっても人生は苦しみです。実際、最近つくづく思うことは、生きるとは大変なこと、ということです。人生は苦しみであります。仏教では四苦八苦ということを言うそうですが、だれであっても人生の苦しみから免れることはできません。日本は自殺する人が多く、9年続けて3万人を超えています。その理由はさまざまでしょうが、生きることがいかに難しいかということを示しています。わたしたちキリスト者も苦しみを免れませんが、わたしたちの人生は、その苦しみを自分の十字架として自分から受け入れ、それを担い主なる神に捧げるという人生であります。 

本日、終生誓願を宣立するアンドレア・斉藤 巍神父は1973年11月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で東京教区の司祭として叙階され、教区司祭としての道を歩んで来られましたが、いま、厳律シトー会の修道者として決定的に生涯を捧げ通す決意を表明し、兄弟である会員の皆様はその決意を受諾なさいます。わたしたちは実は一緒に司祭に叙階された仲です。わたしもそのときに司祭として自分の十字架を担う決意をいたしました。あれから34年の年月が経ちました。わたしはいま自分の十字架を見つめています。司祭になるときにはわからなかった十字架、見えなかった十字架です。斉藤神父も自分の十字架を見つめていることでしょう。それぞれの人にはそれぞれの十字架があり、それは他の人が代わって担うことのできないものです。自分の十字架はあくまでも自分で背負わなければならないのです。そうだとすればかなり辛いものを感じます。 

しかし、同じイエスは次のようにも言われました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11.29-30)。また、パウロは次のように言われます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(一コリント1.18-25) 

イエスと共に担う十字架であればそこには安らぎと救いがあります。主イエスよ、いつも共にいてください、わたしたちを守り支え導き励ましてください。主よ、あなたを信じあなたにゆだねます。共にそのように祈りましょう。