教区の歴史

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神の母聖マリア・世界平和の日 ミサ説教

2007年01月01日

2007年1月1日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

 

今日の福音のなかに、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」という言葉があります。昨日の聖家族の日の福音でも「母はこれらのことをすべて心に納めていた」とあります。「心に納める」ということは聖母マリアの生涯を貫く姿勢、生き方でした。すなわち、自分の上に起こった出来事の意味、自分に告げられた神のことばの意味を思い巡らし、神の御心を求め、御心が行われるように願って生きることです。新しい年2007年を迎えたわたしたちは、この聖母の生き方に倣ってこの年を神にささげたいと思います。 

2007年はこのカトドラルの大改修工事の年です。建物が新しくなってもわたしたち自身が新しく生まれ変わるのでなければ工事にどんな意味があるでしょうか。この一年、聖母に倣い、神のことばを黙想し、神の御心を求め、神の御心を行うように努めましょう。 

ところで、本日は神の母聖マリアの日です。わたしたちが何気なく唱えているこの称号も、実は初代教会において、長い論争の結果確定された言い方です。431年、エフェソ公会議が開かれ「神の母」という言い方は正統であると確定されました。最初の教会の時代、イエス・キリストは誰であるのか、という論議が行われ、イエス・キリストは本当に人であり、同時に神よりの神、光よりの光であるとされたのです(325年、ニカイアの公会議)。 

誰もマリアがイエスの母であることを疑いませんでした。イエスは神よりの神ですから。イエスの母は神の母となります。難しい議論はさておき、この教えは今どんな意味をもっているでしょうか。わたくしは、結局、「神の母」という教えは、人間がいかに尊いかを教えていると思うのです。イエスはまことに人間でありました。わたしたち同じ人間となられたのです。それは人間の尊さ、すばらしさを教えるためでした。創世記1章で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めてよかった」(1.31)と述べられています。人は誰でも神の姿を映すよい作品。価値ある存在なのです。 

今日はカトリック教会では「世界平和の日」でもあります。教皇ベネディクト16世のメッセージ『平和の中心である人間の人格』も、この教え、人間の尊さを述べています。今日はもっともわたしの心に響いたところを皆様に紹介します。聖書ははっきりとこう述べています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1.27)。一人ひとりの人間は、神にかたどって創造されたがゆえに、人格としての尊厳を備えています。単なる物ではなく人格です。自分を知り、自分を所有し、自分を自由に与え、他の人々と親しく交わることができます。同時に、一人ひとりの人格は、恵みによって創造主と契約を結び、信仰と愛をもって神に応答するように招かれています。これは他のどんな被造物もすることのできないことです。こうした驚くべき考え方に基づいて、わたしたちは人間に委ねられた務めを理解することができます。その務めとは、わたしたちが愛する力をもっと高めること、愛において成長すること、世界の進歩に役立つものとなり、世界を正義と平和のうちに新たにする力を高めるということです。 

教皇様は聖アウグスチヌスの言葉を引用していいます。 

「神はわたしたちの助けなしにわたしたちを創造しました。けれども神は、わたしたちの助けなしにわたしたちを救うことを望みませんでした」。 

神はわたしたちの応答を求めているのです。神の呼びかけによく応えることができますよう、心を合わせて祈りましょう。