教区の歴史
年間第17主日 -日本カトリック障害者連絡協議会東京大会参加の皆さんを迎えて
2006年07月30日
2006年7月30日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
日本カトリック障害者連絡協議会(カ障連)の皆さんを心から歓迎いたします。
皆様とご一緒にミサ聖祭を、ここ東京カテドラルで捧げることができますことを本当にうれしく思います。
6年前、群馬県の高崎でカ障連の大会がありました。ちょうど今頃だったと思いますが、調べて見ると7月1日、2日のことでした。当時、わたくしは浦和の司教でした。今日、ここで6年ぶりにカ障連の皆さんとお会いし、ミサを捧げることになり、神様の導きをしみじみと感じます。
実は、神様の導きを感じるのにはもう一つの理由があるのです。それは本日の福音朗読、ヨハネの6章です。本日の福音、パンと魚の奇跡の話しは本当にいい話であると思います。わたくしは2000年(6月)に東京大司教に任命されました。東京大司教の紋章を新たに定めなければならなくなり、どうしようかと考えていたころ、たまたまこの福音が主日に朗読されました。主日の福音朗読は3年周期ですから、ちょうど6年前の今頃もこの箇所が読まれたわけです。たまたまこのヨハネ6章を読んで、ひらめきを受けました。それで5つのパンと2匹の魚を司教の紋章に取り入れたのです。わたくしはこの5つのパンと2匹の魚の話が、教会の原型、教会の本来のあり方をよく表しているように思うのです。5千人もの群集が集まっていました。食事どきになっても食べ物が何もありません。わずかに一人の少年が5つのパンと2匹の魚を持っているだけです。ところが、奇跡が起こって、すべての人が満腹してなお余るほどにパンと魚が増えたという話です。
パンと魚の分かち合いは実に平穏に、そして当たり間のことのように行われたようです。面倒な相談、協議、交渉など一切行われた形跡はありません。もちろん、奪い合い、喧嘩などの騒動も起こっていません。人は自分の欲望を満たすために他者を傷つけたり他者から奪ったりしてしまいます。この世界は強者が弱者を従わせ、弱者から奪う修羅の世界であります。それなのにこの場面を支配している静謐、静けさはなんとすばらしいことでしょう。どうしてこのような平和が可能だったのでしょうか。
ここに集まった5千人は何も持たない貧しい、弱い人々ばかりでした。群衆のなかに5つのパンと2匹の魚を持っている少年がいただけです。少年を含めて人々はただイエスの話を聞き、イエスから恵みを得たいと願って集まった貧しく小さな、何も持たない、そして力のない人だけでした。競争、争奪という気持とはほど遠い人々です。たぶん、彼らは心身の病気・障害に苦しむ者でもありました。
実に集まった人々はみな貧しい人、何も持たない人々でした。彼らはただイエスに会うために、イエスの話を聞くために、イエスから癒し、救いをいただきたくて集まってきたのです。このイエスを求めて集まった貧しい人々、という事実が大切です。これが大切な前提です。このような人々だったからこそ見事な分かち合いが実現したのだと思うのです。この前提のもとに、このような平和な分かち合いが実現したのです。平穏のうちに分かち合いの奇跡が行われたのは、彼らが皆、貧しく、弱い人々であったからではないでかと思うのです。
わたしたちも今日ここに集まっています。二つの食卓を囲んでいます。神の言葉・イエスの言葉をいただくための食卓。そしてイエス・キリストの体、ご聖体をいただくための食卓、この二つの食卓がここにあります。自らの貧しさを自覚し、ひたすら主に頼み、信頼する者として今日わたしたちはここにいます。
今日わたしたちは答唱詩篇で次のように唱えました。
「神を待ち望むすべてのものに、
いのちのかてを豊かに恵まれる。
生きているすべてのものの願いを、
神は豊かに満たされる」(答唱詩篇より)。
実にわたしたちの神は「神を待ち望むすべてのものに、いのちのかてを豊かに恵」んでくださいます。
また聖パウロは勧めています。
「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソ4.6)。「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられ」る、父である神への信仰、信頼を深めていただけるよう祈りましょう。
また、わたしたちは誰しも、心と体に足りないところ、うまくいかないところを持っています。障がいはすべての人の課題です。「障害の神学」ということが言われますが、その解明はまだ十分ではなく、今後の大切な課題であると思います。すべての人が障がいという事実を自分自身の問題として受けとめ、理解し合い、助け合うことができますよう祈りましょう。