教区の歴史
東京教区司祭叙階式
2006年03月05日
2006年3月5日14:00~
東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
受階者
マリア・フランシスコ 赤岩 聰
イグナチオ・デ・ロヨラ 渡辺 泰男
朗読箇所
イザヤ11・1~10
ヘブライ5・1~10
マタイ5・13~16
皆様、2006年の司祭叙階の日を迎えました。大きな喜びの日です。この喜びの日を迎えるにあたり、わたしたち東京教区はどんな状況に置かれているのか、考えてみたいと思います。率直に申し上げて、わたしたちの教区は極めて厳しい状況に置かれております。司祭団にも高齢化の波が押し寄せて来ております。また、わたしたち司祭の中には体調を崩している者もおります。そして東京教区、つまり東京都と千葉県に住む非常に多くの人々は疲れ、病み、苦しんでいます。肉体的に苦しんでいるというより社会的、精神的に悩み苦しんでいます。人々は暗闇のなかで光を求め、砂漠の中で泉を求めています。わたしたち教会の使命は、キリストの光を輝かせる「世の光」であり、人々を潤す「いのちの泉」であることです。
赤岩さんと渡辺さん、あなたがたはその教会の奉仕者である司祭という任務をいま受けようとしています。このような状況でお二人が司祭団に加わってくださるのは大きな喜びであり希望であります。どうかこの東京教区の使命をよく理解し、司祭団の新しい力となり、神の愛を伝え証し、司教のよき協力者となり、弱い人、貧しい人を大切にし、多くの人々にキリストの福音を宣べ伝えてください。
今日のみ言葉に学びながらいくつかの点を述べます。まず第一朗読でイザヤ預言者は言います。「(主の僕は)弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザヤ11.4)。赤岩さんと渡辺さん、司祭は特に弱い人、貧しい人を大切にし、彼らのために配慮し、心を砕く人です。司祭は弱い人、貧しい人へ奉仕するために司祭の権能を受けます。その権能を自分の満足のため、自分の考え、思いを実現するために用いるようなことのないようにしてください。
第二朗読のヘブライ人への手紙は告げます。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(ヘブライ5.2)。唯一の大祭司イエス・キリストに倣って歩みましょう。彼はわたしたちと同じ弱く脆い人間性を受けました。わたしたち人間の苦しみ、悲しみに共感し、思いやることがおできになる方でした。わたしたち司祭はイエスに倣って、人間の苦しみ、悲しみに敏感な人でありたいと思います。司祭という立場と役割はまことに、微妙な心遣いを必要とします。神の慈しみ、優しさ、真実を表し、伝え、証するよう日々心がけましょう。また弱い人間が司祭として生きるということは、多くの苦しみに出合うということであります。キリストはご自分の苦しみを激しい叫びと共に御父にお捧げになりました。わたしたちもキリストに倣い、苦しみを御父にお捧げいたしましょう。
福音書では「あなた方は世の光である」(マタイ5・14)との呼びかけを受けました。すべてのキリストの弟子は「世の光」です。光はキリストの光、キリストの復活の光であります。司祭は教会の役務者として、キリストの光を掲げながら歩む人です。きょう叙階の秘跡を受けるあなたがたには、叙階の恵みというキリストの光が注がれます。祈りのうちにいつもそのことを思い起こしましょう。
司祭の間には人間としての資質と能力に違いがあります。司祭として何かをしようとしてもうまくいかないこともあるでしょう。自分のことをわかってもらえないと感じることもあるでしょう。しかし、あなたがたは自分のために、自分の望みを実現するために司祭になるのではありません。自分の思いにあまりこだわりすぎないよう気をつけましょう。あなたがたはイエス・キリストへの信仰を伝えるために、イエス・キリストの福音を伝えるために司祭の道を選んだのです。司祭であることを大切にして、自分に委ねられた司祭の務めを誠実に、忠実に果たしてください。
真実を尽くし、忍耐し、神の助けと導きに信頼し、勇気と希望をもって歩んでください。あなたが司祭として誠実に生きることが多くの人の慰め、励まし、喜び、希望であるのです。そしてあらためてお願いします。わたくしたち司教のよき助け手となってください。次の祈りはわたくしの心からの祈りです。これから司教が祈る叙階の祈りの一節です。
「主なる神よ、使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたくしを顧み、かつてモーセとアロンになさったように、今、わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください。アーメン。」